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鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

新野左馬之助親矩〜「井伊家1000年の恩人」と賞される律義な男のこと

戦国・江戸

浜松の龍潭寺にひっそりとあった新野左馬之助親矩の墓所。「井伊家1000年の恩人」と賞される人物で、「おんな城主直虎」では苅谷俊介さんが演じておられる。わしが龍潭寺を訪れたとき、井伊直虎墓所には人だかりができていたが、こちらには数人しか訪れる人はいなかった。まあ、ドラマがすすんでいくうちに、いずれ脚光を浴びるであろうが、本日はそんな新野左馬之助親矩について少々。

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新野左馬之助親矩とは

新野左馬之助親矩は戦国時代の今川氏家臣で、現在の静岡県御前崎は新野郷を拠点とした氏族。『吾妻鏡』の建久元年(1190)には、「新野太郎」が源頼朝公上洛の随兵として名を連ねていることから、鎌倉幕府御家人であったことが推察できる。

左馬之助妻は奥山因幡守妹。又左馬之介妹は井伊信濃守直盛公妻。右の重縁故、城東郡新野郷を隠居、井伊谷に引越し居住(『井伊家家伝』

左馬之助の妹(姉とも。大河ドラマでは財前直見さん演じる千賀)が井伊直盛に嫁いだのは、井伊と今川の和睦によるものじゃろう。左馬之助は小野和泉守とともに今川から目付の役割を担っていたようじゃが、縁戚ということもあり、井伊家のために何くれとなく尽力した人物だという。

井伊谷では井伊直盛桶狭間で戦死後、出奔して帰ってきた亀之丞こと井伊直親家督を継ぐ。じゃが、直親は松平元康(徳川家康)への内通を疑われ、今川氏真に誅殺されてしまう。このとき、左馬之助は申し開きの使者として駿河を訪れていたが、わずか2歳の嫡子・虎松(後の井伊直政)処刑の命が出されると、身命を賭してこれを保護し、助命嘆願に奔走したといわれている。

もし、このとき虎松が殺されていたら井伊家は断絶し、その後の徳川四天王彦根藩井伊家は存在しない。それゆえ左馬之助は、「井伊家1000年の恩人」といわれておるのじゃ。

直親横死のあと、井伊家はご隠居の直平が現役復帰する。じゃが、不幸というものは続くときは続くもので、直平もまた今川の三河攻めに参戦し、結果、討死してしまう(毒殺説、病死説もある)。このとき井伊の家督を継ぐべき直政はまだ幼年。とりあえずは中野直由(筧利夫)が当主代理となり、新野左馬之助は直由とともに井伊家を支えていくことになる。

新野左馬之助と中野直由の戦死

しかし、井伊家の不幸の連鎖はこれでは終わらない。義元討死後の今川の凋落をみてとったのか、遠州の今川家臣たちは氏真から離反し、あいついで反乱をおこしはじめる。世にいう遠州錯乱じゃな。井伊家も斜陽の今川氏真からさっさと離反すればよかったのじゃが、律義者の左馬之助はけっして裏切ったりはしない。あくまでも今川に忠義を尽くし、遠州引間城の飯尾連達に攻め込むのじゃが……

新野左馬介

永禄7年(1640)、新野左馬之助と中野直由は共に引間城攻めで討死してしまう。この悲報に井伊谷の人々は震撼したであろう。かくして井伊家はいよいよ正念場を迎えるが、ここで颯爽と登場するのが次郎法師、すなはち「おんな城主・直虎」というわけじゃ。直虎は女だてらに井伊家の窮地を救い、直政が長じるまで、戦国の荒波を乗り切っていくというのが、『井伊家家伝』の物語であり、大河ドラマの根幹をなすストーリーじゃ。

井伊直虎は新野親矩の甥だった?

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「次郎法師は女こそあれ井伊家惣領に生候間」。この『井伊家伝記』の記述をもとにした「次郎法師」=「井伊直虎」という通説が、年末以来、新資料の発見によって揺らいでいるということは前にも書いた。直虎は井伊直盛の娘で出家した「次郎法師」ではなく、じつは関口氏経の子「井伊次郎」だったという説は、大河ドラマの放送直前じゃったこともあり、歴ヲタ界隈を騒がせた。

このことを発表した井伊美術館の井伊達夫氏によると、関口氏経は左馬之助の兄弟で、「井伊次郎」は左馬之助の甥にあたるということらしい。これが事実なら、直虎は女ではなく男だったことになる。それはまあ、本日の主題ではないのでおいておくとして、関口氏といえば今川氏の一門。関口親永は井伊直平の娘を今川義元から払い下げられ、そこで生まれたのが徳川家康の正室・築山殿(瀬名姫)じゃ。関口氏経は、おそらくこの関口氏の分家と思われるが、井伊谷にはかなりの影響力があったんじゃろう。「次郎直虎」と連名で今川の命により井伊谷に徳政令を出した文書が伝わっている。

この「次郎直虎」が「次郎法師」なのか「井伊次郎」なのかが現在、ホットな論点なわけじゃが、もちろんその決着はついていない。「次郎法師」の実在は明らかじゃが、「井伊次郎」については仮に直虎だったとして、消息など、詳細は未だ明らかではない。

じゃが、「次郎法師」は左馬助の姪であり、「井伊次郎」は左馬助の甥である。「井伊家1000年の恩人」である左馬助は、現代もなお、井伊谷の歴史の謎のキーマンとして、地元の人々、大河ドラマスタッフ、歴ヲタを翻弄しているということになる。まあ、このあたりは、さらなる研究成果を待ちたいと思う。

新野親矩の息子・娘たちのその後

井伊直虎が「次郎法師」か「井伊次郎」か、女だったのか、男だったのかはさておき、左馬助についての続きを少々。左馬助の長男・新野甚五郎のことじゃ。新野甚五郎はその後、小田原北条氏に仕えている。最後まで今川氏に忠節を尽くした父の意志を継ぎ、今川氏真北条氏を頼ったときに、その供をしたのかもしれん。

井伊直政徳川家康に仕えた後、井伊家の恩人でもある左馬助の息子・甚五郎を家中に迎え入れようとした。じゃが、甚五郎も父と同じく忠義の人であったのか、北条氏に仕官を続け、豊臣秀吉による小田原攻めで戦死している。小田原包囲戦で戦らしい戦になったのは、蓑曲輪と捨曲輪を巡る攻防くらいのもので、そのいずれにも井伊直政軍が勇戦していたことから、皮肉にも甚五郎は井伊の軍勢に討ちとられたのではないか、ともいわれている。うーん、もしそうだとすれば、ちょっとした名場面がつくれそうじゃな。

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新野左馬助の娘たちの多くは彦根藩井伊家の重臣たち嫁いでいる。筆頭家老の木俣守安もまた左馬助の娘を妻に迎えた一人じゃが、その守安が井伊谷当時のことを知る叔母(伯母)たちから聞き書きしてまとめたものの写しが、昨年末に新発見資料として報道された『守安公書記――雑秘説写記』だ。

そこに「井伊次郎」が出てきているということからしても、やはり関口氏経と連名で徳政令を出した「次郎直虎」は「次郎法師」ではなく「井伊次郎」なのかなという感じがしてくる。

ちなみに井伊直孝は新野親矩の娘たちに10人扶持を与えており、このことからも井伊家が新野左馬助への恩義を強く感じていたことが伺える。新野家そのものは甚五郎の後には断絶していたが、第34代・井伊直中(直弼の兄)は息子の中守に新野の名跡を相続・再興させている。1000年の恩義をようやくお返ししたといったところか。

蛇足ながら「忍たま乱太郎」について

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ちなみに、アニメ「忍たま乱太郎」に出てくる忍術学園の校医・新野洋一もまた左馬助の関連があるのかをネットで調べてみたが、両者の関係を裏付ける歴史的資料はほとんどみつからなかった。

ただ、「新野洋一のモデルは原作者のかかりつけ医である」という記述をどこかで読んだので、おそらく左馬助との関係はないように思われるが、この問題もまた。「井伊直虎が男か女か」ということと同様、新たな論点としていずれクローズアップされてくるじゃろう。今後の研究成果を期待したい。

まったくの蛇足で失礼。