鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

今川義元の首は桶狭間の後、どうなったのか

今週の大河ドラマ「おんな城主直虎」は前半の大きな山場ともいえる桶狭間の戦い。ついに今川の太守様が討ち取られてしまった。ドラマでは太守さまの象徴ともいえる豪奢な扇が泥にまみれて踏みにじられている場面をもって、その最期を描いていた。太守さまが抜刀して織田の服部小平太とやり合い、首を掻こうと組みついてきた毛利新介の指を食いちぎったという壮絶な最期をみたかった気もするが、まあ、それはいうまい。ともかく、春風亭昇太さんはけっきょく、何も語らず静かに退場していったということで、今回は太守様へのレクイエムじゃよ。

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今川の太守様のこと

太守様こと今川義元は、今川氏親の5男として生まれた。母は中御門宣胤の娘の寿桂尼。幼名は芳菊丸または龍王丸。4歳で仏門に入り栴岳承芳(せんがくしょうほう)と称した。太原雪斎とともに京に上って学識を深めていたが、兄の氏輝、彦五郎が相次いで急死したことから、還俗して今川家後継となる。このとき、有力家臣の福島氏が太守様の異母兄・玄広恵探を当主にしようと反旗を翻したが(花倉の乱)、太原雪斎らの奮戦と北条氏の後援によりこれを討ち取り、晴れて家督相続を宣言した。

太守様といえば、大軍を擁しながらも桶狭間で敗れたせいで、後世、薄墨お歯黒ででっぷりした人物に描かれ、必要以上に暗愚な公家かぶれキャラ扱いを受けがちじゃ。じゃが、そもそも今川家は「御所(足利将軍)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」といわれるほどの名家で、そうした出で立ちは都会的な教養の高さとみるべきじゃろう。

もちろん軟弱などということはなく、近隣の北条氏、織田氏らと争いつつ戦国大名としての地位を固めていく。また今川仮名目録の追加法を制定したり、寄親寄子制度で家臣団の統率を高めるなど領国経営でも手腕を発揮。商業政策も巧みで、太守様の治世下の駿府はたいそう賑わっていた。もちろん、これらの功績は師匠の太原雪斎や尼御台で母の寿桂尼の補佐があったからこそじゃが、太守様はやがて「海道一の弓取り」と称されるほどになる。

その後、太原雪斎の尽力で甲相駿三国同盟を締結。今川は後顧の憂いなく尾張攻略を本格的にすすめていく。かくして運命の桶狭間の合戦に至るというわけじゃな。

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今川義元の首はどこへ? 

桶狭間の戦いは、巷間言われているような太守様による上洛戦ではなかった。また織田信長の戦法も迂回による奇襲攻撃ではなく、両軍は正面からの激突したという。桶狭間については、過去にも書いたので、こちらを読んでもらえれば幸いじゃ。 

桶狭間で太守様討死の報が伝わると、今川軍は総崩れとなり撤退。そんな中、鳴海城だけは城将・岡部元信が奮戦し、頑強に抵抗を続けていた。攻めあぐんだ織田軍が開場の使者を送ると、元信は太守様の首と引き換えに城の明け渡しを申し出る。太守様の首は長福寺で首実検にかけられ、清須の須ヶ口で晒されていたが、信長は岡部の忠義に感動し、首を棺に丁重に納めて、送り届けた。

元信は太守様の棺を輿に乗せて、泰然として鳴海城を後にする。そして、むざむざと敗走するのを潔しとせず、駿河へ帰還する道中に刈谷城を攻め落とし、気勢をあげている。今川氏真は元信の奮戦を「忠功比類なし」と讃えたという。

さて、太守様の首のこと。初夏ということもあり腐敗が激しかったため、元信はやむなく今川家所縁の東向寺(愛知県西尾市に塚を築き、首を埋葬する。そして2名の武士がこの地に留まり、以後代々、太守様の墓を守ったと伝えられている。

いっぽう胴体はというと、戦場から家臣がなんとか運び出したが、やはり傷みが激しく、こちらは大聖寺(愛知県豊川市牛久保町)に葬られた。後に今川氏真はこの地で三周忌を営んでいる。

【東向寺にある今川義元首塚Wikipediaより】

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大聖寺にある今川義元胴塚。Wikipediaより】

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今川幕府の可能性は? 

太守様に天下取りの野望がどこまであったのか、それはわからない。じゃが、もし桶狭間で信長に討たれなかったら、その可能性は十分にあったとわしは思う。北条と武田との軍事同盟を結んだ今川家は、すでに東に憂いなく西上できる状態が整っていた。

織田を滅ぼし尾張を確保さえすれば、経済に明るい太守様のこと、その後は伊勢・志摩へと進出したじゃろう。美濃の斎藤は強敵じゃが、今川家の経済基盤を整えた今川家の敵ではない。さすれば京への道は開けてくる。

今川家は将軍家の継承権をもつ家柄であり、十分に力をつけたあかつきには、足利将軍家を補佐し、幕府を立て直そうという気概を太守様がもっていたとしても不思議はないのではないか。少なくとも、その自負心くらいはあったのではないか。

もちろん、歴史はそうはならなかった。太守様の「東海王国」は織田信長の前に閉ざされた。

昨日なし 明日またしらぬ人はただ 今日のうちこそ命なりけれ

『秀雅百人一首』におさめられた太守様の歌。昨日のことはもう戻らない。明日のことなどわからない。今日一日こそが全てなのだ……人生一瞬先は闇。何が起こるかわからぬものじゃ。それでも、今日一日を懸命に生きるしか、わしらにできることはないわけじゃがな。

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