鎌倉ではたらく太守のブログ

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鎌倉幕府滅亡後、北条与党はかく戦えり

元弘3年(1333)、北条高時以下一族門葉は、新田義貞に攻め込まれ、東勝寺の炎の中で自刃。鎌倉幕府は滅亡した。じゃが、その後も北条与党はさまざまな思惑をもって各地で蠢動する。今回はそのあたりを少々。

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北条一族の生き残りといえば、まずは足利尊氏の正室・登子じゃろう。登子は赤橋守時の妹で、彼女が生んだ千寿王は後の室町幕府2代将軍義詮じゃ。また、北条高時の母・覚海尼は伊豆韮山円成寺を建立し、わしら一族の冥福を祈りながら余生を過ごしたと伝えられている。

僧侶となって生きのびた者たちもいる。たとえば園城寺の僧・弁基は名越宗基の子で鎌倉幕府滅亡後もそのまま勤めをはたしている。また赤橋守時・登子の兄弟である時宝は、東大寺の寺務代を勤めておる。

もちろん鎌倉幕府再興のために、建武政権と戦い続けた者も数多い。中先代の乱をおこした北条時行はつとに有名じゃが、そのほかにも北条氏の旧領や守護をつとめた国で、多くの与党が北条を担いで隆起した。

  • 元弘3年(1333)12月、名越時如が陸奥大光寺城で蜂起
  • 建武元年(1334)正月、鎮西探題赤橋英時の猶子となった規矩高政と実弟の糸田貞義が北九州で挙兵
  • 建武元年3月、大仏北条氏の被官・本間氏、得宗被官の渋谷氏が関東で隆起し鎌倉に攻め込む。同年8月には江戸氏、葛西氏も挙兵
  • 建武元年7月、桜田時厳の子孫・遠江掃部助三郎が大隅国で挙兵
  • 建武元年10月、紀伊国飯盛山で佐々目僧正顕宝が挙兵。顕宝は東大寺西室院院主で金沢流北条氏
  • 建武2年正月、元長門探題北条時直の子・上野四郎入道が越後左近将監入道らとともに長門国佐加利山城で隆起
  • 建武2年2月、赤橋宗時の子・赤橋駿河太郎重時が伊予国立烏帽子城に挙兵
  • 建武2年4月、北条一族の「高保」が京都毘沙門堂に立て籠る

いずれも散発的ではあるが、北条与党の反乱は不満分子たちと結びつき、建武政権にとっては悩みの種であったようじゃ。そして建武2年6月には、北条時興(泰家、高時の弟)が暗躍。公家の西園寺公宗をそそのかして後醍醐天皇の暗殺を計画する。そして、それと呼応して信濃国諏訪では北条時行が、北国では名越時兼が挙兵。それぞれが鎌倉、京都をめざす。この大胆な計画は未然に露見し、けっきょくはうまくいかなかったが、足利高氏の離反という後醍醐天皇にはじつに痛い結果を招くこととなる。

足利尊氏が反旗を翻し、南北朝の騒乱がはじまると、北条与党は南朝に帰順して足利と戦うことになる。『太平記』の中の北条時行はこう述べている。

尊氏が其人たる事偏に当家優如の厚恩に依候き。然に恩を荷て恩を忘れ、天を戴て天を乖けり。其大逆無道の甚き事、世の悪む所人の指さす所也。

「足利だけは許さん!」というこの気持ち、おそらく北条与党には共通のものだったはずじゃ。

建武3年/延元元年2月、中先代の乱からわずか半年ののち、まず大夫四郎(北条時興か)が信濃で挙兵し、手薄になっていた鎌倉に侵入する。

翌年には、元六波羅探題普恩寺仲時の子・北条友時が上総で挙兵した。 友時は暦応2年(1339)にも伊豆国仁科城で挙兵するが、このときにらえられ、延元4年2月、鎌倉龍ノ口で処刑されたという記録がある。

各地を転戦していた北条時行が龍ノ口で処刑されたのは正平8年/文和2年(1353)5月20日のこと。ここに北条得宗家は断絶する。鎌倉幕府滅亡後、じつに20年もの歳月が過ぎていた。

なお、時行の活躍についてはこちらに書いておいたので、詳しくはそちらを読んでもらえれば幸いじゃ。