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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

御霊合戦…畠山義就と政長の不毛なお家騒動と応仁の乱のはじまり

呉座勇一さんの中公新書を読んだのをきっかけに、応仁の乱について備忘録的に書いていくシリーズ。まずは乱の直接的なきっかけになった畠山氏のお家騒動についてじゃ。ちなみに写真は今年の正月に行った上御霊神社。文正2年(1467)1月18日、ここ御霊の森に布陣した畠山政長畠山義就が攻撃し、11年もの長きにわたる応仁の乱がはじまったんじゃよ。

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義就と畠山政長家督争い

畠山氏と聞いて思いうかべるのは、畠山重忠じゃろう。源頼朝公に従い一ノ谷や屋島の合戦で武功をあげ、その清廉潔白な人柄は「坂東武者の鏡」とまでいわれた男じゃ。残念ながら畠山重忠は謀反の嫌疑でわが北条に誅殺されてしまったが、その旧領と名跡は、足利義兼の庶長子・足利義純に継承され、以後は足利家の一門として存続。足利幕府では越中・河内・紀伊の守護として栄え、畠山金吾家は斯波武衛家、細川京兆家とともに、幕政の重責を担う三管領のひとつとして有名じゃな。

そんな畠山家のお家騒動が、応仁の乱勃発の引き金になる。主役の畠山義就wiki先生によれば畠山持国庶子で、皮屋の子だとか、母親は異性関係が奔放でそこらじゅうで子をつくったとか、遊女だったとか、どこまで本当かはわらないが、出自はどうもいわくつきだったみたいじゃな。そのせいでか、はじめ持国は後継を弟の持富とし、義就は石清水八幡宮の社僧に出されていたらしい。ところが、実の子に家を継がせたいと思うのは人情というもの。持国はとつぜん12歳の義就(当時は義夏)を還俗させ、新たな後継者に指名する。幸いこの措置は幕府の支持も得られたし、持富自身も持国の違約に文句をいうこともなく、その後、静かに没している。

これで丸く収まればよかったのじゃが、室町期の家督相続にお家騒動はつきもの。案の定、持富の子である弥三郎(政久)を担ごうという輩が出てきた。そこで持国は、弥三郎派の重臣・神保氏らを一掃し、弥三郎邸を襲撃する。進退窮まった弥三郎は細川勝元に助けを求め、山名宗全も弥三郎の家臣たちを受け入れている。細川山名の支持をとりつけた弥三郎派はこれで勢いを取り戻し、逆に畠山持国を隠居に追い込んで、義就を京都から追放することに成功する。

将軍・足利義政は、はじめは持国・義就を支持していたが、弥三郎派が勝利するとその家督相続を認めている。もっとも義政は、弥三郎を匿った細川勝元の被官に切腹を命じたりしているから、内心はおもしろくなかったのかもしれんな。さらに義政は嘉吉の乱で逼塞していた赤松氏の再興をめぐって山名宗全と対立し、宗全の討伐を決意する。もっともここは宗全の娘婿でもある細川勝元のとりなしにより、山名討伐は中断されたが、宗全は隠居のうえ但馬へと下国させられてしまう。

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宗全の失脚を好機とみた畠山義就は、河内から軍勢を率いて京都に戻り、弥三郎を追い落とす。このあたりは義政の乳母・今参局の支持があったようじゃが、ともかくも翌年には持国が没し、義就は畠山の家督を継いでいる。その勢いをかって、義就は大和に逃れた弥三郎の討伐に乗り出すんじゃよ。

ところがこのとき、義就はちょっとやりすぎたふしがある。というのも、義政は穏便に事が収まることを第一に考えており、戦禍の拡大は避けたかった。にもかかわらず義就は政長の力を削がない限り、この先どうなるかわからぬと、大和でどんどん勢力を拡大していく。そこで「将軍の上意」という大義を掲げて、どんどん攻めこんでいき、ついに義政の顰蹙をかってしまう。おまけに義就にとって間が悪いことに、今参局が日野富子の子を呪詛したとの理由で誅殺されてしまっう。そこで、これまで表立った動きをしていなかった細川勝元が巻き返しをはかり、これを機に弥三郎を支援して、弥三郎の上洛を促す。不幸にして弥三郎は上洛後間もなく没してしまうが、重臣たちは弟の畠山政長を擁立したため、義就とのお家騒動はさらに続いていくことになる。

こうした畠山家をみかねたのか、義政は家督能登畠山家から義就の猶子になっていた政国に継がせる案を政長と義就の両者に提示し、手打ちをはかる。じゃが、義就はこれに不服で、河内に下向するとき、あてつけのように家臣たちの屋敷を焼き払う暴挙に出た。義政はこれに激怒、ついに義就討伐を畿内の武士たちに命じたのじゃ。義就は河内の嶽山城に籠城して抵抗するが、ついに支えきれず吉野へ敗走。こうした情勢の下、畠山政長細川勝元の支援を受けて、畠山の家督を正式に継ぎ、管領に就任するのじゃ。

御霊合戦が勃発

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その後、畠山義就は、将軍義政の母・日野重子の死去に伴い恩赦を受けるが、吉野の奥の天川に潜んだまま、復権のチャンスをうかがっていた。そんな義就に助け舟をだしたのが、斯波義廉と山名宗全じゃ。詳細は割愛するが、斯波氏もまた、畠山氏と同じく義廉と義敏とで家督争いをつづけていたし、山名宗全はこの頃、細川勝元と反目しはじめていた。義廉と宗全に挙兵を促された義就はすぐさま率兵上京し、千本釈迦堂に陣を構えた。

ここでよくわからん動きをするのが、将軍足利義政じゃ。義政は政長を支持するのかと思いきや、とつぜん山名宗全邸に赴いて義就の饗応をうけ、政長に屋敷を明け渡すよう厳命する。このあたりの義政の動きは奇怪極まりない。じつは義政は義就という男が好きだったのかもしれん。義政は政長を管領から罷免すると、後任を斯波義廉にすげかえてしまったのじゃ。周囲を山名宗全派の兵におさえられ、ピンチになった政長は細川勝元に支援を求める。ここへきて事態はまさに一触即発。勝元もまた政長救援に動き出すとだれもが思った。

じゃが、ここでまたしても将軍義政が動き出す。義政は、これはあくまでも畠山氏の内紛であるとし、戦禍を最小限におさえるためということで、細川勝元に政長軍に加勢しないよう要求したのじゃ。これを聞いた勝元は、山名宗全が義就を支援しないことを条件にそれを承諾する。この時点では勝元も、宗全との全面対決を避けようという意向があったのじゃろう。

文正2年正月17日深夜、追い込まれた畠山政長は屋敷に火を放ち、2000の兵を率いて上御霊神社に陣を敷いた。乾坤一擲の勝負に出たわけじゃ。対する畠山義就も兵3000でここを先途とばかりに攻めかかる。政長方はよく戦ったが、義就方に山名宗全の命をうけた山名政豊らが加勢すると、ついに敗れて細川勝元邸に逃げ込み、その後、行方をくらました。

かくして御霊合戦は畠山義就の勝利に終わったが、政長を見殺しにしてしまう結果となった細川勝元の武士としての面子は丸潰れとなる。ここへきて勝元は宗全との対決を決意し、四国など自領の兵を京都へ集結させる。宗全もまた軍勢を集めいまの西陣の地に布陣する。京における両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶが、その数は東軍が16万、西軍が11万。京都はいよいよ緊張感を増していく。そして、勝元が花の御所を占領して将軍義政を擁立したのを契機に、ついに両陣営は戦端を開くのじゃ。この戦はやがて全国へ波及し、応仁の乱がはじまるというわけ。そして内乱は長期化により、参戦した大名たちは疲弊し、幕府権力はどんどん弱体化していく。その結果、やがて下剋上の風潮が広まり、戦国大名が台頭してくるというわけじゃな。

畠山義就、政長のその後

ちなみに応仁の乱細川勝元山名宗全の没後、その息子たちの代でなしくずし的に西軍が東軍に屈する形で集結している。じゃが、この大乱が終わっても畠山義就と政長の争いは収まらなかった。そのため、政長が守護をつとめていた山城国では、国人衆や農民がついに業を煮やし、山城国一揆を起こして両畠山氏を排除している。以後、山城国では「三十六人衆」と呼ばれる国人衆が政治がとりおこなうようになる。そして義就と政長は、領国の河内をめぐる争奪戦を繰り広げるが、延徳2年、義就は54歳で没してしまい、それ以後は次男の基家(義豊)が戦いを継続している。

いっぽうの政長は10代将軍に足利義材が就任すると、これと協調して権勢をふるうようになる。そして義就没の報を聞くや、政長はここぞとばかりに義材を担いで基家のいる河内に兵を繰り出している。

じゃが、好事魔多し、日野富子細川政元が新将軍に足利義澄を擁立する明応の政変をおこすと、政長は孤立無援となり、河内正覚寺城を攻められ、とうとう自害に追い込まれてしまうのじゃ。そして畠山家の家督は、畠山義豊(基家)が継ぐこととなり、政長の子・尚順紀伊に逃れ、義豊に徹底抗戦を続けていく。

とまあ……義就と政長にはじまったお家騒動はこのあとも親子代々連綿と続いていくく。もうめんどうだからここで書くのはやめておくが、これらはやはり、人の業によるものなのじゃろうか。この頃の武士たちはこんなことばかりやっていたとすれば、そりゃ、下克上もおこるし、戦国乱世にもなるわな。

そう考えると、江戸幕府を開いて業深き武者どもを統制し、太平の世を開いた徳川家康という人物の偉大さがわかるというものじゃな。もっといえば鎌倉幕府を創始し、武家を束ねた源頼朝公、そして我が祖・北条義時公は、もっと偉いということになる。ひるがえって足利尊氏、そして歴代室町将軍、そちらはいったい何をしていたんじゃ。そんなことなら、鎌倉幕府が続いていたほうが、よっぽどよかったのではないか?

猛省せねばならぬよ。ほんとに。

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