鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

最北の古代城柵・秋田城跡に行ってきたぞ

みちのくひとり旅、つづいての備忘録は秋田城について。秋田駅からバスで30分ほど。秋田城は、奈良時代から平安次代にかけて出羽国秋田にあった最北の古代城柵じゃ。わしらが鎌倉から来たというと、資料館の人がそれはそれは丁寧にいろいろと説明をしてくれた。残念ながらメモをとってなかったの、とりあえず覚えていることを書き付けておく。

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秋田城は天平5年(733)、出羽柵をこの地に移転してきたことからはじまる。天平宝字4年(760)頃には「秋田城」と名称が改められ、大規模な改修がなされたという。城柵とは軍事施設であると同時に行政施設でもある。周囲には「柵戸」と呼ばれる移民が送り込まれ、支配下に置いた俘囚との共同集落が形成され、城柵はいわば市役所のような役割を果たしていた。

資料館には、木簡や漆紙文書、土器や陶磁器、武具などが展示されている。注目は土器に人の顔が描かれた人面墨書土器人面墨書土器は、陰陽師が災厄を避けるためのまじないに使ったものと考えられているが、大和の風習が、この地にも伝わっていたことがじつに興味深い。ちなみに、秋田城には四天王寺と呼ばれる寺院もあったらしいぞ・

資料館ではその他にも、子どもの成長を祈って、胎盤とお金を一緒に埋めた遺跡も発掘されており、当時のこのあたりの様子をうかがい知ることができる。秋田城跡を訪れるなら、資料館へ立ち寄ることをぜひ、おすすめしたい。 

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秋田城はたびたび蝦夷の反乱に悩まされている。もっとも、蝦夷の民にしてみれば、朝廷が勝手にやってきて城柵をつくり、国司なんぞを派遣することは、迷惑極まりなかったじゃろうから、それはそれで当然のことじゃろう。それでも坂上田村麻呂陸奥アテルイを力でねじ伏せたあたりから、蝦夷の反抗はいちおう鎮静化に向かう。じゃが、元慶2年(878)、干ばつによる飢饉国司の苛政が原因で、出羽の蝦夷は決起した。

夷俘叛乱し、三月十五日、秋田城并に郡院の屋舎・城辺の民家を焼き損ふ

秋田城も焼き打ちされてしまった。世に言う元慶の乱じゃな。

蝦夷は「秋田河(雄物川)以北を己が地となさむ」と、律令国家からの独立をはっきりと求めてくる。これに対して朝廷が派遣したのは、備前備中の国司として善政をしいたことで知られる藤原保則じゃ。保則は「今のごときは、坂将軍(坂上田村麻呂)の再び生まるるといえども、蕩定(鎮圧)すること能わす」と、武備を固める一方で、朝廷が備蓄していた食糧を支給したり、税を免除するなど、蝦夷の懐柔に乗り出す。かくして保則の硬軟織り交ぜた対応により、蝦夷はいったんは矛をおさめることとなるが、奥州には「中央なにするものぞ!」との気概が連綿と受け継がれ、前九年、後三年の役といった戦乱の火種が残ることになったともいえるじゃろう。

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藤原保則/Wikipedia

秋田城に赴任してこの地を治める者は「出羽城介」という官職を名乗ったという。「出羽城介」は、陸奥国を治める鎮守府将軍とともに、北方を護る重要な役割を担っていたわけじゃが、前九年の役で「出羽城介」は廃止となるものの、鎌倉時代になると武門の名誉職として「秋田城介」が復活する。

鎌倉幕府の有力御家人であった安達景盛がその官職をもらうと、以後代々、安達氏が「秋田城介」を襲名。後世には織田信忠が「秋田城介」に補任されている。天下布武を掲げて東国へ押し出していく信長の意図が垣間見えて、なかなか興味をそそるではないか。

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秋田城介・安達泰盛/Wikipedia

創建時の秋田城には瓦が用いられていたという。瓦は律令国家の権威を象徴する建築部材。秋田城が朝廷にとって重要な施設であったことをうかがわせる。さらに発掘調査からが、秋田城が渤海との交流拠点であったことを伺わせるものが出てきたという。それが水洗トイレじゃ。

古代水洗トイレは8世紀中頃につくられたらしいが、その沈殿槽内の土から豚を食習慣としていないと感染しない寄生虫の卵(有鉤条虫卵)が発見された。当時の日本人にはブタを食べる習慣はない。となると外来者が使用した可能性が高く、おそらく豚の飼育が盛んだった渤海人じゃろうと、まあ、こういうわけじゃ。

なお、復元されたこの古代水洗トイレは、水を流すことはできるが、じっさいに用を足すのはご遠慮くださいとのこと。そりゃそうじゃ。だれもこんなとこで用を足さんわwww

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渤海中国東北部にあった国で、一時は「海東の盛国」と讃えられた。建国当初から日本との縁も深く、神亀4年(727)から34回の使節を日本に派遣している。はじめ渤海新羅と敵対していたこともあり、多くは沿海州から樺太、北海道西岸を南下し、秋田へとやってきたようじゃ。

とうぜん民間の交流もあったはずで、秋田は北方貿易の拠点として大いに栄えたことじゃろう。「続日本後紀」には、天平18年(746)には、渤海ほか沿海州から1100人もの人が出羽に漂着し、日本への帰化を望んだという記録もある。このとき朝廷は食糧などを与えて帰国を促したらしいが、大陸と日本の交流拠点として、このあたりが重要であったことの証拠といえるじゃろう。

まさに環日本海交易圏、歴史の浪漫じゃな。銭の香りもプンプンするしな。

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