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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

小谷城趾で「浅井長政はなぜ、織田信長を裏切ったのか」その理由を考えてみた

本日9月2日は近江の戦国武将・浅井長政の命日。ということで、昨年末にいってきた小谷城の写真を引っ張り出しつつ、長政へのレクイエムのつもりで書いておこうと思う。
(´-`).。oO(よくみると「クマ出没注意」の看板がある……

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小谷城と浅井氏

小谷城のある小谷山は標高495mの急峻な山。前面に虎御前山、山脇山、丁野山、西に高時川が流れ、背後には伊吹山系が控える要害の山城じゃ。

城下には中山道関ケ原宿と北国街道木之本宿を結ぶ北国脇往還が通り、戦国時代には「近江を制するものは天下を制す」とも呼ばれた要衝じゃ。浅井氏は、北近江の守護大名京極氏の被官じゃったが、浅井亮政が京極氏の跡目争いに乗じて国人一揆を起こし、戦国大名としてのしあがっていく。小谷城の築城もこの頃で、本丸を中心とする主郭と居館のあった清水谷、それらを守るように出丸、金吾丸、大嶽城といった独立した砦が築かれ、亮政、久政、長政の3代50年にわたり、北近江の地を支配した。

小谷城跡からの眺めは琵琶湖と竹生島もみえてなかなかに好風景。NHK隊がドラマ「江〜姫たちの戦国」では、この景色を、時任三郎さん演じる浅井長政と、鈴木保奈美さん演じるお市が娘たちと一緒に眺めていたシーンがあったはず。ちなみに茶々は芦田愛菜ちゃんじゃったな。

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浅井長政と織田信長の同盟

浅井長政は天文14年(1545年)に浅井久政の嫡男として、南近江六角氏が支配する観音寺城下に生まれた。幼名は猿夜叉丸、長じて新九郎。同級生には山中鹿之介、北条氏規、大久保長安がおる。

浅井氏は亮政のときには六角氏とは犬猿の仲じゃった。じゃが、亮政の没後、後を継いだ久政六角氏を頼った。久政は六角への臣従を余儀なくされ、新九郎は六角義賢から一文字をもらって「賢政」を名乗り、正室も六角氏家臣の平井氏から迎えていた。

じゃが、家臣たちは久政のこうした六角への弱腰をよしとしなかった。永禄2年(1559年)、家臣たちは久政を無理やり隠居においこむと、15歳の賢政を担ぎ出す。賢政は名を新九郎に戻して反六角の姿勢を鮮明にすると、野良田の戦いで六角義賢を破り、正式に家督を嗣ぐ。織田信長との同盟の話がもちあがったのは、ちょうどこの頃のことじゃ。

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桶狭間に今川義元を討ち、美濃進出を目指していた織田と、六角斎藤との紛争が続いていた浅井。この同盟は両者にとって必然であったじゃろう。ドラマなどでは、この同盟は信長がもちかけたように描かれるが、宮島敬一氏の『浅井氏三代』(吉川弘文館人物叢書)によれば、じっさいは浅井がもちかけた話のようじゃ。新九郎は信長から一時をもらって名を「長政」と改めると同盟が成立。信長の妹・市を妻に迎えることになる。

信長はこの同盟に殊の外喜んだという。これにより美濃攻略と上洛への道が開けることもあるが、なにより長政の武将としての器量を評価していたのかもしれない。長政と市は仲睦まじく、後に茶々(豊臣秀吉側室)、初(京極高次正室)、江(徳川秀忠継室)の3人の娘をもうけ、後世に浅井の血をつないだことは周知の通り。戦国一の美女と名高い信長の妹を正室に迎えた長政も、得意満面だったことじゃろう。

その後、信長は美濃の斎藤龍興を追い払い、永禄11年(1568年)9月、足利義昭を奉じて上洛を開始する。信長は佐和山城で長政と対面して後援を約すと、六角義賢の居城・観音寺城を落とす。かくして北近江の浅井の支配は盤石。長政は信長の義弟として前途洋々のはずだったのじゃが……

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織田信長との手切れ

京に上った信長は、将軍・足利義昭の名で朝倉義景に再三上洛を促した。じゃが、義景はこれを黙殺。これにより信長は3万の兵を率いて越前へ向かうことによる。将軍と天皇の命を受けての出兵じゃ。

織田軍は琵琶湖西岸を北上、敦賀金ヶ崎城を攻め落とす。じゃが、木ノ芽峠を越えたとき、長政離反の報せをきく。「信長公記」によると、はじめ信長は「虚説たるべき」ととりあわなかったが、次々に入る報告を聞き、撤退を決意したという。なお、このとき、市が両端を縛った小豆袋を信長に送り、長政離反を報せたという逸話があるが、これは後世の軍記物「朝倉家記」にみられる記述で、創作と考えてよいじゃろう。

 では、なぜ、長政は信長を裏切ったのか。巷間いわれているのはこうじゃ。もともと浅井は朝倉には恩義があり、織田との同盟にあたっては、朝倉との不戦の約定をとりつけていた。それをなんの相談もなく反故にされたことから浅井家中は反発。とくに隠居の浅井久政が織田討伐を強硬に主張し、長政はやむなく挙兵したという。じゃが、はたしてほんとうにそうだったんじゃろうか。

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そもそも、この婚姻話は信長がもちかけた話ではなく、朝倉との不戦の約定が盛り込まれていたということそのものが怪しい。そのうえ、近年の研究では、浅井朝倉累代は、必ずしも強固な関係があったとはいいきれないともいわれておる。それに、もし浅井朝倉の関係が強固で不戦の約定まであったととしたら、浅井の同意を得ずに越前に攻め込んでいくほど、信長は迂闊だったんじゃろうか。

すでにこのとき、足利義昭が暗躍し、長政に働きかけていたという説もある。じゃが、この時点ではまだ信長と義昭は双方に利用価値があったはずで、両者は決定的な破局を迎えてはおらず、この説は証拠不十分じゃろう。

浅井長政離反のほんとうの理由

長政離反の動機について、宮島敬一氏は、信長の「天下布武」という政権構想に、長政はついていけなかったのではないか、としている。

信長は軍事制圧・制覇を目的としており、政権は主従関係(所領給与)で家臣との関係を保っていた。じゃが、長政の家臣団構成は「国衆(一揆)の論理」。つまり国人や土豪による地域連合であり、その統治のあり方には大きな違いがあった。三代をかけて合戦ではなく国衆との関わりの中で地域秩序をつくりあげてきた浅井にとって、信長の強引な覇権主義には違和感をもったのではないか。

信長はいつの間にやら長政を家来扱いするようになっていた。同時代の資料には、信長が「浅井には北近江一円を与えておけば十分」と考えていたことが記されている。そもそも戦国大名はみな天下を目指していたわけではない。長政は信長の国盗り、天下取りのために軍役に駆り出され、手駒として組み込まれていくことに疑念を抱いていたというわけじゃ。要するに「こいつは危ない」と。

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そんな矢先の朝倉攻め。もし浅井が信長の背後を襲えば確実に仕留められる。そう判断した長政は、信長からの離反を決意した。これは本能寺で明智光秀が謀反をおこしたときの心境に似ているかもしれない。

「長政は、信長の近くにあって、彼を客観的あるいは的確に捉えることが出来た数少ない人物だったのではないだろうか。その意味で、徳川家康とは好対照であり、また豊臣秀吉とは正反対の立場・行動をとったといえる」(『浅井氏三代』(吉川弘文館人物叢書)

後世の歴史を知っている者からみれば、長政の行動は守旧的で、信長からの離反は判断ミスという印象を免れないかもしれぬ。じゃが、金ヶ崎の退き口での信長が京都に生還できたのは多分に幸運だったし、その後の浅井朝倉戦の勝利もギリギリのものじゃった。つまり、長政には十分に勝機はあったし、この離反には戦国武将としての合理的な判断が働いたとわしは思う。

ということで、小谷城趾の浅井長政公自刃之地碑で合掌。この後の長政の奮戦については、またそのうち書こうと思う。 f:id:takatoki_hojo:20170910124145j:plain 

浅井氏三代 (人物叢書)

浅井氏三代 (人物叢書)