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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

本能寺の変、足利義昭黒幕説が再び注目されているようじゃが……

先日、毎日新聞「明智光秀、密書の原本発見。本能寺の変直後、反信長派へ」という報道が話題になっておった。NHKも「本能寺の変は室町幕府再興が目的か。光秀の書状を確認」と報じ、さらに拍車をかけた。じゃが、みなのもの、ちょっと落ち着け、落ち着くのじゃ!

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歴ヲタなら当然知っていることじゃが、この史料そのものは、昔から書状の写しが伝わっておって、今回はその原本が見つかっただけのこと。もちろん、原本が見つかったこと自体は大きなニュースなのじゃが、中身そのものは新しい発見があったというわけではない。

原本が発見されたのは、本能寺の変の10日後に明智光秀雑賀衆土橋重治に宛てた返書で、その内容はこちら。

仰せのように今まで音信がありませんでしたが、上意(将軍足利義昭)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛の件につきましては既に承諾しています。そのようにご理解されて、ご奔走されることが肝要です(毎日新聞2017年9月12日)。

土橋重治が将軍と上洛支援の協力を約束しており、光秀もそのつもりでいるのでよろしく!という内容じゃから、「そうか、足利義昭が黒幕だったんだ」となるのはわからんでもない。

じゃが、この書状の問題は日付じゃ。本能寺から10日後の天正10年6月12日頃といえば、明智光秀はかなりのピンチ。京都をおさえて近江を平定したものの、頼りにしていた細川幽斎・忠興父子は離反するし、筒井順慶日和見であてにならない。そんな中、羽柴秀吉は毛利と講和して中国大返し。摂津衆も秀吉と結んでしまう。

こんな劣勢の中、光秀が雑賀衆や毛利、上杉と結ぶために、足利義昭を担ぐのは、成り行きとしては当然で、幕府再興を考えていたという証拠にはならんじゃろう。これが本能寺の変より前の日付じゃったら決定的なんじゃがな。

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足利義昭黒幕説のもうひとつの有力な根拠とされるもにとしては、上杉家の記録である『覚上公御書集』に所収された、天正10年6月3日付、直江兼続宛ての河隅忠清発給文書がある。本能寺の変は6月2日じゃが、この文書の日付が正しければ、光秀の使者が上杉家臣・須田満親のもとを訪れ、クーデター実行を事前通告していたことになる。しかも、「御当方無二の御馳走申し上ぐべき由来り候」と、光秀より上位者、つまり足利義昭や朝廷への配慮が伺える内容になっているという。

じゃが、この文書の日付は、所収しているものによりまちまちで、記述がないものすらある。これは本能寺の変後に上杉家が疑いをもたれるのを避けるために、あえて曖昧にして収めたという説もあるが、戦国史研究の第一人者の谷口克広氏がこの文書に出てくる関係者の当時の動き等をもとに検証していった結果、この文書が発給されたのは6月15日頃とするのが妥当という結論を出している。

つまり、光秀が上杉家に使者を立てたのは本能寺の変後、ということになり、多くの研究者がそれを支持している。今回発見された土橋重治宛の書状と同じで、河隅忠清の書状もまた、足利義昭黒幕説の証拠にはなり得ないというわけじゃ。

光秀が幕府再興を企て、足利義昭と共謀していたということは、まずないじゃろう。とはいえ、足利義昭の存在がクーデター後の光秀にとって重要であったことは、おそらく間違いないじゃろう。

教科書では、義昭が信長に追い出されたことをもって足利幕府の滅亡としているが、同時代の人にはそんな感覚はなかったはず。流浪して毛利氏を頼ってはいたが、足利義昭は依然として征夷大将軍として鞆の浦に存在しておったんじゃからな。光秀もまた、その後の畿内統治や諸大名との連携に、義昭を利用しようと考えたとしても不思議はない。

そのあたり、明智光秀の謀反の動機や本能寺後の展望などについては、またあらためて書きたいと思う。

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