鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

姉川の戦い…野も田畠も死骸ばかりに候

だいぶ間延びしてしまったが、昨年末の浅井長政史跡巡り備忘録の続き。今回は姉川の合戦についてじゃ。滋賀県長浜市野村町、姉川にかかる野村橋の北側に「姉川古戦場跡碑」がある。このあたり、戦国時代に織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が雌雄を決した場所じゃ。

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織田信長の強運

 

金ヶ崎の退き口により、からくも難を逃れた信長は、稲葉一鉄らに南近江の守山を守らせ、永原に佐久間信盛、宇佐山城に森可成、長光寺城に柴田勝家(例の甕割りの逸話じゃよ)、安土に中川清秀を配し、京都から岐阜への退路の確保につとめた。いっぽう長政は六角承禎と図り、信長を挟撃しようと目論む。そこで信長は、鈴鹿山中を超えて伊勢へと抜ける千草越えで岐阜をめざした。このとき信長は、六角承禎が放った刺客・杉谷善住坊に、わずか20mの距離から2発狙撃されたが、かすり傷ひとつで逃げおおせたという。なんとまあ、運の強い男じゃな。

その後、六角軍は野洲河原で柴田勝家佐久間信盛に敗れ壊滅する。長政は美濃へ進出して垂井、赤坂周辺を放火、美濃近江の国境の城砦を修築し、織田軍の来襲に備えた。じゃが、木下秀吉の調略により、堀秀村とその老臣の樋口直房が信長に内通し、国境は織田のものとなってしまう。激怒した長政は、人質としていた樋口直房の女子を串刺しにしたと伝えられている。

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浅井・朝倉、織田・徳川、姉川を挟んで対峙

元亀元年6月19日、信長は尾張、美濃、伊勢の大軍を率いて北近江に侵攻する。じゃが、長政は小谷城に篭って出てこない。そこで信長は、小谷城下を焼き払うと、森可成柴田勝家、木下秀吉、丹羽長秀らに命じ、姉川を隔てて小谷城の南に位置する横山城を包囲させ、信長自身は竜ヶ鼻に布陣した。その後、織田軍には徳川家康が合流、いっぽうの浅井軍にも朝倉景健率いる援軍が到着し、決戦の機運が高まっていく。

6月28日未明、浅井・朝倉軍は姉川を前にして軍を野村、三田村の二手に分けて布陣する。これに対し織田軍は、西美濃三人衆を横山城への備えに残し、徳川軍は三田村方面の朝倉軍にあたらせ、信長自身は野村方面の浅井軍と対峙し、決戦に備えた。

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こちら↑は勝手ながらWikipediaよりもらいました。

卯の刻(AM6時頃)、戦いの火蓋が切って落とされた。当初、戦況は浅井・朝倉軍が優位で、浅井軍の猛将・磯野員昌は織田軍に突っ込むと織田の先鋒・坂井政尚は、あっという間に壊滅。嫡子・久蔵が討死にしている。

磯野勝に乗って、猶鬨を作りかけ、敵味方入乱れ、追つ返しつ戦ひけるが難なく右近(政尚)撞き退く。坂井が一族同名のものども、口惜くや思ひけん、百餘騎引き返し枕を並べ討死し、残り少なになりければ、猶叶はずして引退かんとしけるに、嫡子坂井久蔵いまだ十六歳、容顔美麗人に勝れ、心も優にやさかりつるが、引返し、向ふ敵に渡し合せ切つ切られつ追靡け、暫く戦ひけるが、遂に討たれて失せにけり。郎党可児彦右衛門の尉、坂井喜八郎等も枕を並べて討死す。父の右近は、夢ばかりも之を知らずして退きたりけり(「信長公記

磯野員昌は勢いに乗ると、織田軍の13段の備えのうち11段までを打ち破り、信長本陣に迫る。じゃが、激戦の中、徳川家康榊原康政に命じて朝倉軍の横合いから本陣を急襲させる。先頭を行くのは蜻蛉切の猛将・本多忠勝。家康軍も川を渡り、朝倉軍を挟撃する形となり、朝倉景健はたまらず潰走した。ここに横山城に備えていた西美濃三人衆が信長の救援に駆けつける。浅井勢はあと一歩というところまで押しこんだが、三方から敵に攻められ、やむなく撤退することになる。

今日、巳時、越前衆ならびに浅井備前守、横山後詰めのため、野村と申す所まで執り出し、両所人数を備え候。越前衆一万五千ばかり。浅井衆五千もこれあるべく候。同刻、この方より切り懸け、両口一統に合戦を遂げ、大利を得候。首の事、さらに校量を知らず候間、注すにおよばず候。野も田畠も死骸ばかりに候。誠に天下のため大慶これに過ぎず候。

信長は細川藤孝宛の書状にそう記している。織田・徳川軍はその後、小谷城付近まで追撃をかけたが、一気に城を落とすまでには至らなかった。そこで、降伏した横山城に木下秀吉を入れ、姉川の合戦は織田・徳川軍の大勝利で終わった。なお、このとき、浅井家の忠臣・遠藤喜右衛門直経が単身で信長の本陣へ向かい、あと一歩のところで信長を撃ち漏らした逸話が伝わっておるが、それはまた、あらためて書こうと思う。

さて、この合戦の勝利により、信長は姉川以南を支配下におく。じゃが、浅井・朝倉もこれで終わってしまったわけではない。このあと、比叡山延暦寺三好三人衆本願寺一向一揆勢力、そして武田信玄の西上作戦と連携、すなわち足利義昭による「信長包囲網」により、信長を追い詰めていくことになる。長政と信長の戦いは、なおも続いていくのじゃ。

後世の目から見ると、「長政はなんで信長を裏切ったんだろう。そのままいけば義弟として家中で優遇されたじゃろうにもったいない……」と思わんでもないが、姉川の合戦もそこそこ善戦じゃったし、長政には十分に勝機があったように思えるんじゃが、どうじゃろうか。もっとも、それで天下の行く末がどうなったかは、わしにはわからんがな。

なお、長政がなぜ離反したのかの考察は、こちらをご参照くだされ。

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