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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

大政奉還150周年。あらためて徳川慶喜の政権構想について考えてみた

今日は平成29年10月14日。いまからちょうど150年前の慶応3年10月14日(1867年11月9日)は、15代将軍の徳川慶喜大政奉還を朝廷に上奏した日じゃ。

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一昨日の報道によると、教科書でもおなじみのこの有名な場面はどうやら後世の創作で、じっさいには慶喜はこの場にはいなかったらしい。なんでも、新発田藩の京都留守居役・寺田喜三郎が当日の様子を克明に記録していた文書がこの度この度発見されたらしい。それによると当日に二条城へ集められたのは約40藩の重臣50人ほど。一同が二の丸大広間に詰めていると老中・板倉勝静が出座し、「書付3通を渡すので考えを腹蔵なく申し上げよ。将軍が直々にお聞き遊ばされる」と説明しただけじゃという。とはいえ、大政奉還の歴史的な意義そのものが損なわれるものではもちろんない。

徳川幕府と大政委任論

徳川幕府はいうまでもなく、徳川家康が実力をもって勝ちとった政治権力じゃから、本来、天皇や朝廷にはなんのおかまいもなくてよいはずである。じゃが、わが国においては、政権の正統性を担保するには天皇のお墨付きは必要不可欠。征夷大将軍天皇から与えられる官職じゃし、そもそも幕府の官学である朱子学も、天皇こそ正当な王者であるとしておる。ただ、そうなると「天皇と将軍はどっちが偉いのか」という議論を素通りするわけにはいかなくなる。そこで、将軍は天皇から委任されて政治をとりおこなっているという「大政委任論」が登場してきたというわけじゃ。

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これをはっきりと示したのが松平定信じゃ。定信は徳川家斉に、将軍としての心得をつぎのように説いている。

古人も天下は天下の天下、一人の天下にあらずと申候、まして六十余州は禁廷より御預かり遊ばされ候御事に御座候ば、かりそめにも御自身の物に思し召すまじき御事に御座候、将軍とならせられ天下を御治め遊ばされ候は、御職分に候。

もっとも、この時期の幕府は屋台骨が揺らぎ始めたとはいえ、なおも強固な実力をもっている。松平定信朱子学を奉じており、尊王の志も篤い人じゃったが、「大政委任論」を唱えるかたわら、「一度委任された以上は口出し無用」とばかりに、朝廷に対しては毅然とした態度をとり続けた。それが光格天皇による尊一号事件と生前退位につながるわけじゃ。政権担当者としては、まあ、当然のことじゃろう。わしら北条ももちろんそうじゃったし。

大久保一翁大政奉還

「大政委任論」を政権運営の根拠にしてきた徳川幕府じゃが、ペリー来航により、幕藩体制は大きく揺らぎ始める。水戸の徳川斉昭らは口うるさく攘夷攘夷と騒いでおるが、そんな実力は幕府になはい。そこで、老中主座の堀田正睦天皇の勅許を得て斉昭ら反対派を抑えようとするが、これが逆効果。攘夷派公卿と孝明天皇はこれを許さず、正睦は手ぶらで江戸へ戻ることとなる。これにより、朝廷が政治に口出しするようになってしまったのじゃ。その後、大老井伊直弼は「大政委任論」の立場から勅許を得ずして条約調印に踏み切り、安政の大獄を惹起して幕権強化につとめるが、尊王攘夷派の恨みを買い、水戸浪士に桜田門で暗殺されてしまう。こうして、「もはや幕府に大政を委任しているわけにはいかない!」という幕末の空気が醸成されていくわけじゃな。そんな中で出てきたのが「大政奉還論」。言い出しっぺの代表格は幕臣大久保一翁じゃ。

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松平慶永が明治になって遺した「逸事史補」によると、尊王攘夷の世相を憂慮した大久保一翁は、大政奉還を提案したという。

大久保一翁が)進で云く、徳川家の傾覆近年にあり、上洛あつて可然、其時幕府にて掌握する天下の政治を、朝廷に返還し奉りて、徳川家は諸侯の列に加り、駿遠参の旧地を領し、居城を駿府に占め候儀、当時の上策なりと諌言す。衆役人満座大笑し、とても出来ない相談なりといへり。

攘夷は国家のためならないことを説き、それでも朝廷が聞き入れることなく、攘夷を断行せよというのならば、政権を朝廷に奉還すべき、というのじゃ。「衆役人満座大笑し、とても出来ない相談なりといへり」とあり、だれも相手にしなかったようじゃが、これはやがて現実のものとなってしまうわけじゃ。 

坂本龍馬船中八策土佐藩による建白

大政奉還については、坂本龍馬が長崎から上京する「夕顔丸」の船中で、後藤象二郎に「船中八策」を入れ知恵したことがきっかけとなったと、世間的には流布されている。司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」でおなじみの目場面じゃな。薩長が武力倒幕をすすめる中、あくまでも公武合体を藩論としていた土佐藩は旗色が悪く、龍馬の提案する大政奉還を藩論として建白し、頽勢挽回を画策するという展開じゃ。

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もっとも、船中八策はその原本が残っているわけではなく、司馬遼太郎さんが描いた名場面そのものは後世の創作とされている。また「船中八策」の内容も大政奉還も、龍馬の独創ではなく、大久保一翁から勝海舟、龍馬へと伝わったもので、当時の識者の間では一般的な政権構想であったという。当然のことながら慶喜もこれを認識していたはずじゃ。

じゃが、それを断行できるかどうかはまた別の話じゃろう。徳川15代、260年委任されてきた政治権力を手放すというのは、並大抵の決断ではなかったはず。じゃが、慶喜は土佐の献策にのり、大政奉還を上奏した。 

慶喜謹テ皇国時運之改革ヲ考候ニ、昔王綱紐ヲ解テ相家権ヲ執リ、保平之乱政権武門ニ移テヨリ、祖宗ニ至リ更ニ寵眷ヲ蒙リ、二百余年子孫相受、臣其職ヲ奉スト雖モ、政刑当ヲ失フコト不少、今日之形勢ニ至リ候モ、畢竟薄徳之所致、不堪慙懼候、況ヤ当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ、愈朝権一途ニ出不申候而者、綱紀難立候間、従来之旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ奉帰、広ク天下之公儀ヲ尽シ、聖断ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇国ヲ保護仕候得ハ、必ス海外万国ト可並立候、臣慶喜国家ニ所尽、是ニ不過奉存候、乍去猶見込之儀モ有之候得者可申聞旨、諸侯江相達置候、依之此段謹テ奏聞仕候 以上

薩摩藩はこれに先立ち、大政奉還を藩是とする土佐藩と薩土盟約を結んでいる。これは、大政奉還を期待してのものではなく、慶喜がこれをのまなかったとき、武力討幕の大義にするためのものであったという。つまり薩摩もよもや、慶喜大政奉還を上申するとは思っていたなかったというわけじゃ。上表の同日、薩長両藩に討幕の密勅が下されていた。この密勅を起草したのは岩倉具視の側近・玉松操で、これは明らかに偽勅ではあったが、ここまでして幕府を討ち滅ぼそうという薩摩の矛先を、慶喜は寸前のところで回避することができたとうわけじゃ。

徳川慶喜の真意と政権構想は?

大政奉還の実現を報せる後藤からの手紙を読んだ龍馬は、こう発言して慶喜の大挙を賞賛したという。

「将軍家、今日のご心中、さこそと察し奉る。よくも断じたまえるものかな。余は誓ってこの公のために、一命を捨てん」

じゃが、慶喜大政奉還を決意した真意はどこにあったのじゃろうか。異国が日本をねらっているなかで無用な内戦を避けるため、私心を捨てて大政を奉還した、といったことが言われているが、もちろん、そんな美談のわけはない。そこには、朝廷には政権担当能力などはなく、けっきょくは自分に「もういちどやってくれ」といってくるに相違ないという計算があったはずじゃ。じっさい、慶喜は将軍職を辞めたわけではなく、王政復古の大号令がなされたときも大坂で英米仏蘭伊独の公使を引見して薩長を強く非難し、日本の主権は自分にあることを宣言している。
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では、慶喜はどのような政権構想をもっていたのじゃろうか。じつは、慶喜大政奉還上表に先立って、幕臣で開成所教授を務めた西周に新しい政権構想を諮問している。西は「議題草案」をまとめたが、その内容は西洋の官制に倣う三権分立を取り入れ、行政権を元首(大君)としての慶喜(徳川家当主)が、司法権は各藩が、立法権を各藩主と藩士により構成される議政院がもつとしている。天皇元号の制定や爵位を与える権利などはあるが、議決への拒否権や軍事権はなく、象徴的地位に置かれている。大名の領地はそのままとされ、当面はその兵力をあてにするが、いずれは郡県制へと移行し、中央政府の元に軍隊を組織することを構想していたらしい。

このとき、慶喜はかなり自信をもっていたのではないか。この国難を背負えるのは自分しかいないという自負心もあったじゃろう。徳川幕府には有能な官僚機構も存在していたし、慶喜首班の政権がかりにできあがっていたとしても、明治の世は近代日本としてゆるやかながらも歩み始めたじゃろう。

じゃが、現実は慶喜の想定通りには運ばなかった。薩摩の西郷吉之助は強引に慶喜を戦に引き込み、武力倒幕路線を遂行していく。このあたりの経緯は、来年の大河ドラマ西郷どん」でも描かれるじゃろう。なお、王政復古から鳥羽伏見に至る経緯については、こちらをお読みいただければ幸いじゃ。