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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

遠藤直経・浅井長政の忠臣〜彼は聞ゆる剛の者にて、力あくまですぐれたり

さて、今回は遠藤喜右衛門直経のこと。司馬遼太郎さんが小説に書きたいと思いながら、ついに果たせなかった(司馬遼太郎著『近江散歩』)という浅井家中の剛の者じゃ。遠藤直経の墓は姉川古戦場跡碑からほど近くの畑の中にぽつんとあったので、ともかくも手を合わせてきたぞ。

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遠藤直経の出自

遠藤直経の先祖は鎌倉時代、近江に所領を得て下向したとされている。直経は近江国坂田郡(現・滋賀県米原市)柏原庄の出身で、須川城を居とした。赤尾、海北、雨森氏などと同じく浅井氏譜代の家臣で、小谷城下の清水谷に居館を持つことを許されていた。

直経は浅井長政が幼い頃からいわば傅役がわりをつとめてきた。そのため長政の信頼も厚く、長政が六角氏から離反するにあたり、最初に相談をもちかけたのは直経じゃったという。

浅井と織田が同盟を結んだときから、直経は織田信長の才を見抜き、その危うさに気づいたという。永禄11年(1568)、佐和山城を訪れた信長の接待役を命じられた直経は信長を「表裏の大将」と断じて暗殺するよう長政に進言したが、長政はそれを受け入れなかった。

じゃが、朝倉と織田との関係が悪化すると、家中は朝倉との旧縁を重んじるべきか、織田との婚姻関係を重んじるべきかで2つに割れた。直経の懸念が的中したというわけじゃ。しかし直経は、すでに朝倉が頼りにならないこと、今となっては織田を敵に回すことが無謀であることを説き、織田との同盟堅持を主張したが、このときも直経の進言はいれられなかった。

これらの逸話がどこまで史実なのか。じつはかなり疑わしい。おそらく信長の強運と人物の大きさを後世に伝えるための創作であろうという見方が妥当なようじゃ。とはいえ、こうした逸話が出てくること自体、直経が長政の信を得ていた忠臣であり、その才を知られた人物であったことは間違いなかろう。

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姉川の戦いで討死

元亀元年(1570年)の姉川の戦いが勃発。浅井軍が総崩れになると、直経は味方の三田村左衛門の首級を掲げて、織田軍を装って陣中に侵入し、信長誅殺を試みる。じゃが、信長馬廻りの竹中重矩(竹中半兵衛の弟)に見破られ、討死するのじゃ。

彼は聞ゆる剛の者にて、力あくまですぐれたり

竹中重矩は直経をそう評した。あと一歩のところまで肉薄した直経は、さぞかし無念だったじゃろう。この塚がある小字は「円藤」といい、直経の命日には地元の人の手で法要が営まれているらしいぞ。

それにしても、織田信長という男はじつに悪運が強い。さすがは第六天魔王、浅井は相手が悪すぎたということで。

なお、姉川の戦いについては、こちらご参考まで。

takatokihojo.hatenablog.com

ちなみに、京都御所膳所藩御用達のお菓子屋さん「藤屋内匠」は直経がルーツらしい。当主は代々・遠藤仁兵衛を名乗り、当初の屋号は『鶴屋仁兵衛』を称していたが、将軍・徳川綱吉が娘の鶴姫を溺愛して、庶民が「鶴」の字を使うのを禁じたことから、伏見宮家から「藤屋内匠」の屋号を仰せつかったとか。

いちおうこれ、豆知識として。

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