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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

斎藤道三、義龍、龍興…積不善の家には必ず余殃有り

岐阜遠征こぼれ話との3回目。本日は道三流斎藤三代についての備忘録じゃよ。

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美濃の蝮・斎藤道三 

ますは美濃の蝮こと斎藤道三。司馬遼太郎さんの『国盗物語』では、道三が油商人から身を起こし、美濃を乗っ取るまでが描かれている。じゃが、近年の研究では、この事績は親子二代に渡るものであったことが解明されている。歴史というのは、やはり発見があって、史実が書き換えられていくものなんじゃな。

油商人・松波庄九郎は北面の武士の家柄じゃったが、わけあって京都妙覚寺で得度。その後、還俗して油商人・山崎屋となったが一念発起し、美濃守護・土岐政頼の家臣・長井長弘に仕える。庄九郎はめきめきと頭角をあらわし、長井家臣・西村氏の家名を継いで西村勘九郎を名乗り、その後は長井姓を与えられて長井新左衛門尉と称するようになる。

この頃、土岐家中では、政頼の嫡男・頼武と次男・頼芸の間で家督争いがおきていた。そこで新左衛門尉は長弘とともに頼芸を担いで守護代の斎藤利茂ら頼武方と戦い、稲葉山城を攻め取ることに成功する。これにより頼芸は守護の座に就き、長弘が守護代の斎藤氏にかわって美濃の実権を握るのじゃ。

ところが享禄3年(1530)、長弘はとつぜん新左衛門尉に上意討ちにされてしまう。なんでも長弘は、越前に追放した頼武とが内通したという嫌疑をかけられたらしい。うーん、きな臭い。このあたり、新左衛門尉の梟雄ぶりがうかがえるな。

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新左衛門尉の息子・長井規秀(こちらがいちおう、いわゆる斎藤道三)もまた、天下の大梟雄であった。長井規秀は美濃守護代の斎藤利良が病没すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政を名乗る。そして土岐頼芸の弟・頼満を毒殺すると頼芸を尾張へ追放。事上の美濃国主となる。

もちろん、いくら下克上のはじまりとはいえ、こんな無茶苦茶があっさり通るわけはない。土岐頼芸は、越前の朝倉孝景のもとに逃げていた土岐頼純と連携、尾張の織田信秀の後援を得て、美濃回復を画策する。じゃが、利政はこの事態に巧みな外交戦略を展開する。まずは土岐頼純を美濃守護に据えることで朝倉と和睦。ちなみに頼純は一年後に病で急死している。おそらく利政が暗殺したのじゃろう。いっぽう織田信秀に対しては、娘の帰蝶を嫡子・信長に嫁がせて同盟を結ぶ。結果、土岐頼芸は体良く追い払われ、ここに美濃は完全に利政のものになるのじゃ。

その後、利政は正徳寺で「うつけ者」と評されていた娘婿の信長と会見。『信長公記』によると、このとき利政は信長を高く評価し、家臣に「我が息子たちはあのうつけの門前に馬をつなぐことになる」と語ったという。

天文23年(1554年)、利政は家督を子の義龍へ譲って剃髪し、道三と号して隠居した。 じゃが、なぜか道三は義龍を「耄者(おいぼれ)」と断じ、その弟たちを偏愛した。そして道三が義龍を廃嫡して、正室の小見の方の腹である孫四郎を嫡子にしようとしたことから、義龍は弟たちを殺害し、道三に対して兵を挙げた。長良川の戦いじゃ。この戦いで、道三に味方するものは少なかった。やはり権力奪取の過程で、土岐の旧臣から恨まれておったんじゃろう。娘婿の信長は援軍を送るも間に合わず。道三は信長に美濃を譲り渡すという遺言を残して戦死したという。享年63。  

身長は六尺五寸の堂々たる体躯だった斎藤義龍

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斎藤義龍は大永7年(1527年)、斎藤道三と側室の深芳野の長男として生まれた。深芳野はもともと土岐頼芸の愛妾で、のちに斎藤道三に下賜されたことから、じつは義龍は土岐頼芸の落胤という噂が絶えなかった。もちろん確かな話ではないが、道三が義龍を遠ざけた理由がここにあったと考えると、いろいろと納得なのじゃがな。

義龍の身長は六尺五寸、約197cmだったというから、かなり貫禄ある大男だった。権力奪取にあけくれていた道三とは異なり、義龍は隣国の織田信長、浅井久政と戦いながらも、戦国大名としての基礎を築いていった。

じつは、義龍の家督相続は、戦ばかりにあけくれて内政を顧みない道三に、重臣たちの不満が爆発し、やむなく行われた当主交代だという話もある。長良川の戦いも、道三が権力再奪取を目論んで挙兵したというわけじゃ。土岐旧臣にしてみれば、とうぜん道三より、頼芸落胤の噂もある義龍のほうがシンパシーを感じるじゃろうし、義龍もそれをうまく利用したのかもしれなんな。

合議制を取り入れ、家臣の意見も良く聞いたという義龍。今際の際に、道三は息子を無能とみたことを後悔したとも伝わっている。じゃが、義龍は残念ながら35歳の若さで急死してしまう。そのあとを子の龍興が継ぐが、これは戦国大名斎藤氏にとってはかなりの痛手であり、織田にとってはじつに幸運じゃったと思われる。

信長に徹底抗戦した斎藤龍興

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斎藤龍興は義龍の庶子といわれているが、浅井亮政の娘・近江局と言う説もある。そのあたりは定かではないが、織田信長の美濃侵攻に対抗するため、龍興は浅井長政と同盟を結ぼうとしたふしがあるらしい。じゃが、一足先に信長が妹の市を長政に嫁がせて、同盟を結んだことからこれを断念。織田浅井の両者から攻められ、苦しい立場に追い込まれてしまう。

一般に後世の龍興評はろくなものがない。政務を奸臣・斎藤飛騨守に任せ、自身は女と酒に溺れる日々。愛想を尽かした竹中半兵衛らに、わずか16人で稲葉山城を乗っ取られ、斎藤飛騨守が殺害される事件も起こしている。のちに西美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)のも離反され、御家を滅亡に追い込んだ当主として、散々な言われようである。

じゃが、こうした悪評は織田家によってかなり誇張されて伝わっている可能性がある。そもそも龍興が家督を継いだのはわずか14歳のときで、稲葉山城落城のときも20歳になったばかり。それで酒と女? まあ、昔の武将はそういうこともあるのかもしれんが、それにしてもまだ若年であり、龍興が無能であったと決めつけるのは、いささか酷な気がするのう。

そんな龍興じゃが、稲葉山落城後も信長に徹底抗戦を挑んでいる。長島一向一揆に身を投じ、敗れた後は三好三人衆や本願寺と結託し、信長打倒に執念を燃やす。そして畿内に潜伏していた頃、龍興はキリスト教に関心を抱いたという。龍興はガスパル・ヴィレラに、こんな質問をしたと伝えられている。

「人間がデウスに祝福され、万物の霊長であると保障されていると言うが、それならば、なぜ人間はかくも多くの不幸に見舞われるのか。戦乱の世はいつまでも終わらないのか。万物の霊長たらんと創造されたのならば、なぜ人間の意志に世は容易に従わないのか。こんな荒んだ世の中を一生懸命、善良に生きている者達が、現世では何ら報われないというのは、いったい何故なのか」

うーん、暗愚な人物とは思えんのじゃがな。じっさいルイス・フロイスも「日本史」に、龍興は「たいへん優秀で思慮深き人物」と記している。

その後、龍興は越前の朝倉義景を頼り、なおも信長に抗う。じゃが、天正元年8月14日、織田軍の朝倉攻めの際、刀根坂の戦いで奮戦あえなく討死。龍興を斬ったのはかつて家臣であった氏家直元の嫡男・氏家直昌じゃったと伝えられている。享年26。

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かくして道三流斎藤氏はここに滅ぶ。

捨ててだにこの世のほかはなき物を いづくかつひのすみかなりけむ

この世のほかは捨ててしまって、残ったのはこの身とこの命だけだ。私の最期の地とはいったい何処になるだろうか……斎藤道三の辞世の句じゃ。裏切りの連続で美濃をとった道三じゃが、最後は息子に殺され、その息子は早死にし、孫は娘婿に殺されてしまった。

道三流斎藤三代は、まさに「因果応報」じゃな。「積善の家には必ず余慶あり、積不善の家には必ず余殃有り」とは「易経」の言葉じゃが、まさにそんな感じ。なるほど、道三は確かに傑物じゃったかもしれんが、明らかにやりすぎじゃ。義龍、龍興はけっして凡庸な男ではなかったはずじゃが、権謀術数でつかんだ一時の栄華は、やはり長くは続かない。 お天道様は見ているぞ、ということで。