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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

西郷どんは奄美・沖永良部で「命の使い方」を学んだ!?

大河ドラマ西郷どん」は「島」編が終了。二階堂ふみさん演じる愛加那ちゃんの切ない演技に涙した人も多かったじゃろうな。かくいうわしもそうじゃ。ということで、今回は愛加那ちゃんと西郷の奄美での生活についてじゃよ。

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奄美の島々の歴史をまずはざっくり

その前に、まず奄美群島の歴史をざっくりとおさらい。Wiki先生によると、奄美が初めて文献上に現れるのは「日本書紀」で、斉明天皇3年の条に「海見嶋」とあるそうじゃ。すでにその頃には大和政権に存在が認識されていたということになるが、天平期には遣唐使奄美を経由して大陸に赴いたという記録もあるらしい。

中世には鹿ケ谷の陰謀で俊寛が鬼界島に配流されている。また、源頼朝公は義経殿の追討にあたり、鬼界ヶ島に地頭を設置している。ちなみに奄美大島や喜界島には平家の落人伝説もあるらしい。まあ、平家はいろんなところに伝説を残しておるけどな。

その後の奄美は北条得宗領に組み込まれ、鎌倉幕府が滅亡すると島津氏の采配地となる。じゃが、尚巴志により琉球王国が成立すると、奄美の島々もその勢力下となっている。この時期の内地は戦国期、島津も南進している場合ではなかったのじゃろう。

江戸時代になると、薩摩藩は満を持して琉球に侵攻する。このとき奄美群島も制圧され、以後は島津氏の支配を受けることになる。薩摩藩奄美群島代官所奉行所を設置し、役人を送り込んでいる。

薩摩の搾取と黒糖地獄

江戸後期、島津重豪の時代、薩摩藩の財政は危機的状況に陥る。その原因の一つは重豪の蘭癖。この頃、薩摩の収入は13万両なのに借金はなんと500万両! 藩財政は破綻寸前の危機的状況。そんなときに財政再建を託されたのが調所広郷じゃ。調所は奄美のサトウキビに目をつけた。

調所は黒糖を専売制とし(「砂糖惣菜買入制」)、薩摩藩は利益を独占する。島民にはサトウキビ以外の栽培を許さず、年貢は全て黒糖で納めさせた。その取り立ては苛烈で、島民が指についた黒糖を舐めただけでも処罰された。当人は蘇鉄の実を毒抜きして食べたり、幹からでん粉をとって粥にして飢えをしのいだ。この薩摩による搾取「黒糖地獄」は「家人(やんちゅ)」という債務奴隷を生む。

名君・島津斉彬の治世になっても搾取は変わらない。しかも斉彬は重豪と同じく蘭癖で、富国強兵と幕政介入には莫大な金が必要じゃった「西郷どん」で愛加那が、「薩摩のお殿様にとって、島のもんは民ではなかったのですね」となじり、西郷が色をなすシーンがあったが、そこにはこういう背景があったわけじゃ。

西郷、奄美大島へ潜居

そんな奄美大島に「菊池源吾」と変名した西郷が流されてくる。月照と無理心中をはかったものの自分だけが蘇生したことから、西郷は慚愧に苛まれておった。そのため、当初、西郷は奄美で自暴自棄の生活を送った。とつぜん奇声を発したりする西郷を、島の人たちは「大和のフリムン(狂人)」と呼んだという。

西郷の島民に対する視線も実は冷ややかじゃった。鹿児島の大久保正助に宛てた書簡では、奄美の人々を「毛唐」呼ばわりして蔑んでいる。

島のよめじょたちうつくしき事、京、大坂などがかなう丈に御座無く候。垢のけしょ一寸ばかり、手の甲より先はぐみ(入墨)をつきあらよう。

誠にけとう(毛唐)人にはこまり入り申し候。矢張りはぶ性にて食い取ろうと申すおもいばかり。

此のけとう人との交わり如何にも難儀至極、気持ちも悪敷、唯、残生恨むべき儀に御座候

島の女たちは京や大坂のような美人はいない!  入墨なんぞしていてびっくり、アラヨウ!  「毛頭」「ハブ性」の島民との交わりは「難儀至極」。生き残っていることが恨めしい。

西郷どん」らしくない思えない発言じゃな。じゃが、当時の薩摩の人にとっての奄美の認識は、まあ、こんな感じだったんじゃろう。

島妻(あんご)・愛加那

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そんな西郷にとって慰めとなったのが、島妻(安居)の愛加那。愛加那は奄美大島・龍家の一族として生まれる。幼名は於戸間金(おとまがね、おとまがに)。「於」は尊称で「金(加那)」は「恋人」「愛しい人」の意の呼び方じゃから、名は「とま、とぅま」になる。 西郷が島妻に迎えたときに「愛」の名を与え、「愛加那」になったらしい。

龍の一族は奄美の支配層であり、薩摩藩郷士格である。当時の奄美には薩摩から来た役人に赴任期間限定の妻を差し出す「島妻」という制度があった。期間限定なので島妻は薩摩には連れ帰れないが、男子が生まれれば郷士になれたし、扶持米ももらえるなど、何かと恩恵を受けられた。もちろん薩摩で引き取ってもらい教育を受けさせることもできる。西郷が先君斉彬のお気に入りであったことは龍佐民は当然知っていたはず。率先して姪の愛加那ちゃんを差し出したんじゃろう。

二人の仲はたいへん良かったようで、人前でも平気でイチャイチャやっていたらしい。やがれ島民を「毛頭」と蔑んでいた西郷も島の生活に溶け込んでいく。そして奄美に来て2年、西郷に待望の男児・菊次郎が生まれる。

野生(西郷)には不埒の次第にて正月二日男子を設け申し候。御笑い下さるべく候。

西郷は大久保に嬉しそうに書簡を送ってる。やはり子どもの存在はでかい。佐民の求めに応じて子どもたちに読み書きを教えたり、島役人の木場伝内に島民生活の改善を求めるなど、ようやく西郷らしくなって来たというわけじゃな。

ちなみに、西郷が奄美を去った後、愛加那は女子(菊草・菊子)を生んでいる。二人は後に西郷本家に引き取られる。菊次郎は西南戦争で片足を失うも京都市長に栄達する。いっぽう、菊子は大山巌の息子・誠之助に嫁いだが、酒浸りでろくに働かない夫に苦労させらたようじゃ。島に残った愛加那は明治35年、農作業中に倒れ、そのまま亡くなっている。享年65。

再び沖永良部島流罪

さて、一度は薩摩に呼び戻された西郷じゃったが、島津久光の逆鱗に触れて再び島送りとなってしまう。今回は流罪じゃから、前回の奄美大島のときとはわけが違う。はじめ徳之島に着いたときには、愛加那が菊次郎、菊草を連れて会いにくるなど、西郷への監視もゆるやかっじゃったが、それもつかの間、西郷は沖永良部島へ遠島となり、過酷な流人生活を余儀なくされる。

西郷は座敷牢に閉じ込められ、日に日に衰弱していく。そんな瀕死の西郷を助けたのが島役人の土持政照。土持は自腹で民家を買い取って西郷に与えるなど、さまざまに便宜をはかった。西郷は土持の献身に感謝し、義兄弟の契りを交わしている。

さらに西郷と交流した人物が川口雪篷じゃ。雪篷は島津久光の写字生だったが、酒を飲む金がほしくて書物を質入れしていたことがバレて、沖永良部に流罪となっていた(といわれるが、じっさいはよくわからない)。西郷は雪篷と意気投合、書や詩文を教わり、時世を大いに論じ合ったという。

沖之永良部時代に西郷が「七言絶句」が伝わっている。

朝に恩遇を蒙り夕に焚坑せらる
人生の浮沈晦明に似たり
たとい光を回らさざるも葵は日に向う
若し運開くなきも意は誠を推す
洛陽の知己皆鬼となり
南嶼の俘囚独り生を竊む
生死何ぞ疑わん天の付与なるを
願くば魂魄を留めて皇城を護らん

「朝、主君にありがたい処遇をもらっても夕方には生き埋めされてしまう人もいる。人生の不沈は昼夜の違いのようなものだ。光を当てなくても葵は太陽に向かうように、運がめぐることがなくとも心は誠でありたい。洛陽(京都)の同志たちは国難に殉じたが、私は生き恥をさらしている。生死は全て天から与えられたものである。 願わくば死んでも魂をとどめ皇城を守りたい」

吉田松陰高杉晋作に「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」と語ったというが、西郷は沖永良部で「命の使い方」を得心したのかもしれない。このあたりの気迫は陽明学的であり、幕末の志士たちは凄まじい。

この後、九死に一生を得た西郷は、天の配剤により、再び薩摩に呼び戻される。そして大久保一蔵らとともに維新回天を主導していく。謀略を用い、強引に徳川を追い詰めていくそのやり口は「革命家」であり、これまでの「西郷どん」のイメージとは明らかに異なる。このあたりが西郷の不思議なところというか、その人物像をわかりにくくしているように思うが、その件については大河ドラマが終わってから、あらためて考えてみたい。

西郷の評判を落とした大島商社

さて、そんな西郷じゃが、この話には触れておきたい。維新後の奄美についてじゃ。廃藩置県が行われると、奄美は島津家の支配から解放され、鹿児島県の管轄となる。当時の鹿児島県は、多くの士族が禄を失い、困窮した生活を送っていた。そこで鹿児島県は、奄美経済の中心である製糖事業に目をつけ、大島商社という士族救済のための授産事業会社を設立。自由売買の世になったにも関わらず、島民代表と契約したとして大島商社は砂糖の売買を独占し、安値で島民から買い叩いた。利権を手放さず、搾取を続けたのじゃ。まあ、士族の天下り先といったところじゃな。

驚くのは、大島商社の設立に、なんと西郷が賛意を示していることじゃ。そればかりか、桂久武宛の書簡には「手広く売り広げると大蔵省に目をつけられ、利益を奪われるから、よくよく注意せよ」とアドバイスも送ってもいるのじゃ。遠島により奄美の人たちの苦境を知っていたはずの西郷が、どういうつもりだったんじゃろうか。結果的には「士族可愛さに島を切り捨てた」という誹りは免れんじゃろう。

その後、沖永良部島土持政照が西郷に陳情にやってくる。西郷はこのとき、さすがにまずいと思ったじゃろう。大蔵省の松方正義に「条理が立つように世話をしてやって欲しい」と書簡を送っている。西郷はこのとき、自分の失策に気づいたことじゃろう。

まあ、「敬天愛人」の大西郷といえども人間じゃから失敗もある。聖人君子でもない。何でもかんでも礼賛すればいいというものではない。これは当たり前のことじゃ。

けっきょく西南戦争が終わるまで島民への搾取は続く。奄美出身で、グラバーと交遊がある英国帰りの丸田南里はこの事態を目の当たりにして、「勝手世(かってゆ)」という砂糖の自由売買を求める運動を起こす。そして明治10年、島の陳情団総勢55名が鹿児島に上陸する。西郷と親交のあった者たちや愛加那の親類もいたらしい。当然、西郷が助けてくれるとの期待はあったじゃろう。

じゃが、その期待は見事に裏切られてしまう。県庁は全員を問答無用で投獄し、その後、西南戦争が始まると35名を強制従軍させた。けっきょく戦死6名、行方不明14名。このことに西郷がどこまで関与していたかはわからんが、実に酷い話ではある。