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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

伊治呰麻呂の乱と蝦夷三十八年戦争のこと

多賀城跡を訪れたとき、いっしゅん伊治呰麻呂ゆかりの地にも行こうかと思ったが、さすがに断念。帰宅後、GoogleMapで行った気になって、備忘としてまとめておく。

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伊治城跡(Google Map)

こちらは宮城県栗原市にある伊治城跡。奈良時代後半の宮城県北部はヤマトの征夷政策に蝦夷が激しく抵抗し、政情は不安定だった。そうした中、神護景雲元年(767)に設置された城柵が伊治城じゃ。

ヤマトはなぜ、そこまで蝦夷に執着したのか

素朴な疑問として、なぜ、ヤマトは蝦夷征討にそれほど固執したのじゃろうか。律令国家建設のため、蝦夷も公民化したいというのはもちろんあっただろう。じゃが、おそらくそれでけではあるまい。ズバリ、最大の理由は「金」じゃよ。

天平勝宝4年(752)、奈良・東大寺の大仏がめでたく開眼したが、この大仏に使われた金はは陸奥で発見されたものじゃった。仏教による鎮護国家を掲げた聖武天皇にとって大仏造営は悲願であったが、深刻な金不足で完成の目処が立たなかった。そんな中、陸奥涌谷での金発見に朝廷は歓喜した。

天皇の御代栄えむと東なる陸奥山に金花咲く

大伴家持はそう詠んでいる。まさか国内で金が発見されるとは思ってもいなかったヤマトは、この時以来、東北に目をつけたといってよいじゃろう。

ヤマトは軍事外交両面から蝦夷征討を推し進め、その拠点として多賀城を造営した。このことについては、前回書いたので、そちらを読んでもらえれば幸いじゃ。

ヤマトに従った蝦夷は「俘囚」と呼ばれ、階位を与えられ、律令体制に組み込まれた。中でも出世頭は牡鹿の蝦夷である丸子嶋足。帰順後、嶋足は中央に出て功名をあげ、姓を「道嶋」に変えて貴族の仲間入りした。これにより陸奥における道嶋一族の力は増大した。じゃが、道嶋一族のような例は珍しく、多くの俘囚はヤマトと結ぶことに利があるから帰順したが、いわれなき侮りに耐えられず暴発する者もいた。

例えば宝亀元年(770)、俘囚の宇漢迷宇屈波宇(うかめのうくはう)はとつぜん、ヤマトの支配を逃れ、同族を率いて北方へ去った。

蝦夷宇漢迷公宇屈波宇等。忽率徒族。逃還賊地。差使喚之。不肯来帰。言曰。率一二同族。必侵城柵。於是。差正四位上近衛中将兼相摸守勲二等道嶋宿禰嶋足等。検問虚実。(『続日本紀』)

宇屈波宇は朝廷の召喚にも応じることなく、「同族を率いて必ず桃生城(柵)を侵してやる!」と捨て台詞を吐いたとのいわれている。検問のために道嶋嶋足が差し遣わされたが、これもまた呼び戻すことはできなかった。

伊治呰麻呂宝亀の乱

宝亀5年(774)7月、蝦夷が反乱を起こし、桃生城に侵攻する。これが宇屈波宇かどうかはよくわからんが、この時期、陸奥出羽における蝦夷の離反と反乱が多発する。

陸奥国言。海道蝦夷。忽発徒衆。焚橋塞道。既絶往来。侵桃生城。敗其西郭。鎮守之兵。勢不能支。国司量事。興軍討之。但未知其相戦而所殺傷。 (『続日本紀』) 

事態を重く見たヤマトは、大伴駿河麻呂と紀広純を陸奥に派遣する。大伴駿河麻呂は年寄りじゃし、やる気のない官僚だったようじゃが、紀広純は必ずしもそうではなさそう。駿河麻呂のあとを受け、陸奥国司、按察使、鎮守将軍を歴任し、胆沢進出の拠点として覚鱉城(かくべつじょう)築城を進めていく。かくして、ヤマトと蝦夷による「三十八年戦争」がはじまるというわけじゃな。

宝亀8年(777)には、志波村の蝦夷が隆起する。この時、征討に功を挙げたのが伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)じゃ。

陸奥国上治郡大領外従五位下伊治公呰麻呂反。率徒衆殺按察使参議従四位下朝臣広純於伊治城。(『続日本紀』)

呰麻呂は陸奥国伊治郡の俘囚の出身。ヤマトに帰順して国府に仕え、伊治郡の郡司(大領)をつとめ、外従五位下という官位をもらっていた。

続日本紀』によれば、紀広純は初め呰麻呂を嫌ったが、のちには大いに信頼を寄せるようになった。しかし、同じ俘囚出身である牡鹿郡大領の道嶋大盾は同じ俘囚のくせに呰麻呂を見下し、侮ったため、呰麻呂は大盾のことを密かに恨んでいたという。

伊治呰麻呂。本是夷俘之種也。初縁事有嫌。而呰麻呂匿怨。陽媚事之。広純甚信用。殊不介意。又牡鹿郡大領道嶋大楯。毎凌侮呰麻呂。以夷俘遇焉。呰麻呂深銜之。

宝亀11年(780)、覚鱉城造営にあたり、紀広純らは伊治城を訪れる。このとき、呰麻呂は軍を動かし紀広純、道嶋大盾を多勢で囲んで殺害してしまう。伊治城の発掘調査からは、このときの大規模な火災の跡が確認されている。幸い、陸奥介の大伴真綱(おおとものまつな)は囲みを破って多賀城に逃れ、ヤマトに急を報じる。呰麻呂の反乱に恐怖した多賀城下の住民は、城内に入ろうとしたが、真綱は陸奥掾の石川浄足(いしかわのきよたり)とともに逃走してしまい、やむなく住民は逃げ散ったと記されている。

賊徒乃至。争取府庫之物。尽重而去。其所遺者放火而焼焉。

数日後、蝦夷軍は城に入って略奪行為を働き、城下を焼き払う。これが宝亀の乱(伊治呰麻呂の乱)のあらましじゃ。

蜂屯蟻聚。首為乱階。攻則奔逃山薮。放則侵掠城塞。(蝦夷勢は蜂のように群がり、蟻のように集まり、騒乱の元になる。攻めればすばやく山中に逃げ込み、放置すれば城下を侵略し、掠め取る)
族賊衆四千余人。其所斬首級僅七十余人。則遺衆猶多。(賊4000のうち70余の首をとったが、まだまだ残党も多い)

燎原の火のごとく燃え上がる蝦夷の反乱に、藤原継縄紀古佐美藤原小黒麻呂らが派遣されるが、吉弥侯伊佐西古らのゲリラ戦に手を焼いたヤマトは、なあなあでのまま軍を解散してしまう。かくして蝦夷征討は、坂上田村麻呂の登場まで、持ち越しと相成るわけじゃよ。

ちなみに、事の発端をつくった呰麻呂についての記録は不思議なことに一切、途絶えている。まあ、こうした状態じゃから、呰麻呂は伊佐西古らとうまく連携し、戦い続けたのじゃろう。討ちとれば大手柄としてヤマト側の記録に間違いなく残るはずじゃからな。

鳥矢崎古墳にある呰麻呂一族の墓が語るもの

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鳥矢崎古墳

宮城県栗駒町にある鳥矢崎古墳。発掘の結果、ここには中央(ヤマト)の埋葬形式の古墳と、辺境(北方型)の埋葬形式の古墳が確認されている。このうち中央型古墳は、出土品からみて国司クラスの一族の墓と推定される。この地域で国司クラスの人物といえば、伊治呰麻呂の一族の他は考えられない。文献にはないが、宝亀の乱の後も、呰麻呂は蝦夷の衆を率いてヤマトにゲリラ戦をしかけつつ余生を過ごし、この地に葬られたのじゃろう。

なお、『宮城県栗駒郡鳥矢崎古墳調査概況』(栗駒町教育委員会)には、この地域がヤマト文化と北方文化の接点であったと考察している。そして、これは単なる文化の影響関係に止まらず、南から北へ、一方的に進んでいた律令国家の指導性が一時交代し、北の勢力である胆沢に結集された北方蝦夷勢力が、この地まで大規模進出してているのに関連しているのはでないかと指摘している。

伊治城の経営はヤマトによる胆沢への布石である。一方、胆沢の蝦夷は呰麻呂の乱以前から、北上川を経て南下をみせていた。北方型古墳がこの地につくられたのはまさにその時期である。陸奥国胆沢といえばもちろん大墓公阿弖流為アテルイ)じゃ。呰麻呂の乱は、ヤマトに帰順しなかった北方の蝦夷アテルイとの関連でとらえていくべき事件であることは間違いないじゃろう。

もっとも蝦夷に統一的なアイデンティティがあったかといえば、それは疑問ではある。じゃが、よそ者が進出してきて、勝手なことをほざけば、こうなるのは必然。たまにヤマトは農業技術などを普及しながら、穏健に蝦夷の蒙をひらこうとしたなどとほざく者もいるようじゃが、馬鹿も休み休み言えよと。その議論はどう考えても無理がある。

なんせ、近世においても東北は「白河以北一山百文」などといわれたし、昭和になってすらサントリーの社長をつとめるほど見識のある人物でも「仙台遷都など阿呆なことを考えてる人がおるそうやけど(中略)東北は熊襲の産地。文化的程度も極めて低い」と発言し、東北地方で不買運動を引き起こしたりしておるからな。まして、当時、ヤマトから派遣された役人なんぞ、絶望的に酷かったことは想像に難くない。なんせ、中央から見れば辺境の蝦夷やし、東夷やし。

話が横道に逸れた。要するに、わしは何が言いたいかというと、こういうことじゃ。

秋田県代表・金足農準の選手諸君、優勝おめでとう! よく頑張ったぞ!