鎌倉ではたらく太守のブログ

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神保修理は、なぜ死なねばならなかったのか

150年前の今日、明治元年9月22日は会津が落城した日。幕末会津の悲劇は、ほんとうに胸を締め付けられる。戊辰150年の今年、凄惨な会津戦争を避けることができなかったか。そんなことを考えておると、一人の人物の死がなんとも残念に思えてくる。会津藩開明派・神保修理のことじゃよ。

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会津ニハ思いがけぬ人物ニてありたり

神保修理天保5年(1834)、会津藩家老・神保内蔵之助の長子として生まれた。「修理」は通称で、実名は長輝。藩校日新館の秀才として将来を大いに嘱望された男じゃった。保守的で頑迷な藩風の会津にあって、珍しく開明的な考え方の持ち主であり、藩主・松平容保の期待もひとかたならぬものであったとか。ちなみに大河ドラマ「八重の桜」では斎藤工さんが、日テレの「白虎隊」では国広富之さんが好演しておったのをご記憶の方も多いじゃろう。

文久2年(1862)、藩主容保が京都守護職として京にのぼると、修理はその側近くで国事に奔走する。8.18の政変や蛤御門の変でも、おそらく容保をよく補佐したのじゃろう。その後、慶応2年(1866)には、容保の命により長崎に赴く。国際感覚豊かな修理を長崎に派遣して、藩兵組織と教練の近代化を進めようとしたわけじゃな。

修理は長崎で伊藤博文大隈重信ら西国の志士とも交流した。坂本龍馬は「会津ニハ思いがけぬ人物ニてありたり」と、修理の人物と見識を褒める手紙を残している。堀内孝雄さんの「愛しき日々」の歌詞ではないが、もう少し時がゆるやかであったなら、近代日本の建設に大いに名を成したかもしれぬな。

じゃが、幕末の動乱は風雲急を告げていた。孝明天皇崩御会津の運命を暗転させてしまう。薩摩藩岩倉具視は幼帝を抱き込み、武力倒幕へとつき進む。討幕の密勅は徳川慶喜大政奉還により空振りに終わったが、薩摩は武力をもって御所の九門を閉鎖し、王政復古のクーデターを起こした。神保修理が長崎から戻ったのは、この頃のことであったという。

神保修理の建言と徳川慶喜の敵前逃亡

軍事衝突を恐れた慶喜は兵を連れて大坂に引いたが、西郷はあくまでも武力倒幕を目指して慶喜を挑発する。小御所会議では慶喜を擁護する山内容堂に手を焼いた岩倉具視に「短刀一本あれば片がつく」と凄んだり、江戸で火付け強盗などのテロ行為を指示するなど、大河ドラマ西郷どん」で信吾どんが感じたように、このとき西郷は慶喜の首をとるために「鬼」になっていたのじゃ。

やがて江戸での薩摩藩邸焼き討ちの報が入ると、大坂の兵たちはいよいよ興奮状態となる。「上様を刺し殺してでも薩摩を討つ」という強硬意見に慶喜は流された。かくして鳥羽伏見の戦いが勃発するというわけじゃ。

幕軍劣勢の中、1月6日深夜、修理は容保に、ついで慶喜に謁見したという。『昔夢会筆記』で慶喜は当時のことをこう語っている。

神保修理には逢いたり。その言うところは「事ここに至りては、もはやせんかたなし。速やかに御東帰ありて、おもむろに善後の計を運らさるべし」となり。

会桑二藩をも諭し得ずして「いかようにも勝手にせよ」といい放ちしが一期の失策なり。かく後悔したる際に神保の建言を聴きたれば、むしろその説を利用して江戸に帰り、恭順謹慎せんと決心せしかど、そは心に秘めて人には語らず。(『昔夢会筆記』)

慶喜は興奮状態の兵を説諭しなかった。出馬を迫られた慶喜は「千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」「さらば、これより打ち立つべし、皆々その用意すべし」とぶちあげておきながら、夜陰に紛れて密かに海路、江戸へ逃げ帰ってしまったのじゃ。

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異変に気付いた修理は、急いで慶喜らを引き止めようと天保山沖へと馬を走らせたが時すでに遅し。たしかに修理は慶喜に恭順を説いたが、よもや兵を置き去りにして、黙って夜逃げしてしまうとは想定外だったはずじゃ。おまけに主君・容保も一緒というではないか。暗澹たる思いは想像するに余りある。

当然のことながら置き去りにされた藩士からは怨嗟の声が上がる。本来は慶喜、容保に向けられるはずの怒りの矛先は修理に向けられてしまう。

「江戸に帰ること進言したのは修理だ」
「負けたのは修理のせいだ」
「修理を斬れ」

……かくして修理はスケープゴードにされてしまったというわけじゃ。

なお、鳥羽伏見の戦いについては、こちらにも書いたので読んでいただければ幸いじゃ。

惜しまれる神保修理の死

松平容保は修理の身を案じて、和田倉上屋敷に匿った。そして修理と親交があった勝海舟も、慶喜を通じて修理を幕府で預かるように動き出す。じゃが、頭に血が上っている会津藩主戦派は、これを阻止し、実力をもって修理を三田下屋敷に移送する。しかも、君命と偽って修理に詰め腹を切らせてしまったのじゃ。

帰りこん ときぞ母のまちしころ はかなきたより 聞くへかりけり

神保修理の辞世。慶応4年(1868) 2月22日、偽りの君命であることを知りながら修理は自刃するのじゃが、その前日、勝海舟に宛てて一編の詩を送り、自らの心境を吐露している。

一死もとより甘んず。しかれども向後奸邪を得て忠良志しを失わん。すなわち我国の再興は期し難し。君等力を国家に報ゆることに努めよ。真に吾れの願うところなり。生死君に報ず、何ぞ愁うるにたらん。人臣の節義は斃れてのち休む。遺言す、後世吾れを弔う者、 請う岳飛の罪あらざらんことをみよ(「旧会津藩先賢遺墨附伝」)

岳飛は無実の罪で謀殺された南宋の忠臣である。 修理、享年35。 

その後、慶喜江戸城内の抗戦派を一掃し、松平容保にも登城禁止を命じる。そして和平工作勝海舟に丸投げした慶喜は上野寛永寺に謹慎恭順。これにより会津藩は朝敵の汚名を一身に背負うこととなる。かくして容保は「なんすれぞ大樹、連枝を投げ打つ 」と、無念の詩を詠むことになる。

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神保修理亡き後の会津外交は頑なすぎた…… 

松平容保会津に戻って恭順の姿勢を示す。じゃが、それはあくまでも武備恭順であり、「来るなら来い!」という姿勢であった。よく会津戦争は恭順している会津薩長が私怨で理不尽にも攻めこんできたといわれるが、それは半分は正しいが半分は違うように思う。修理を切腹に追い込んだメンタリティが、その後の会津の悲劇を招いたのじゃ。修理亡き後、会津は主戦派が藩政を握り、融和の道を探ろうという動きはほとんどなかった。

そもそも幕末期に尊王でない藩などはない。今でいう「民主主義」と同じくらい浸透した価値観であった。じゃが、そんな中で、藩祖の遺訓を愚直に守り、あえて火中の栗を拾って京都の治安を守った会津藩尊王は本物じゃった。それゆえ孝明天皇から絶大な信頼を得たのである。「非義の勅命は勅命に非ず」だの「玉を握った方が天下をとる」などと平然といってしまう薩摩や長州とは純度が違う。

とはいえ……会津の外交は愚直すぎた。プライドが高すぎた。武士の矜持を貫かんがために自ら悲運を招いてしまった。慶喜の優柔不断、さらには奥羽鎮撫総督府世良修蔵の悪魔キャラは会津にとって不運じゃったが、「悪いのは修理だ」と鳥羽伏見の敗戦の責任を修理に背負わせて死に追い込んだ勢いのまま、会津戦争に突入してしまった。

降りかかる火の粉は払わねばならぬ。たしかにその通り。じゃが、もし修理が鳥羽伏見後の処理にあたっていたら、戊辰の悲劇は回避できたのではないか……いやいや、それはもう言うまい。修理の死をもって「まだ負けてはいない!」と会津は再び一つになれたんじゃからな。敗れはしたものの、士魂を貫いて歴史に名を残したんじゃから、それでよいのかもしれん。武士なんじゃから。

とはいえ、会津戦争大垣藩兵に凌辱された修理の妻・雪子さんは、あまりにも不憫じゃ。会津藩士の妻ゆえ、修理の自刃を聞いても恨みがましいことは言わんかったようじゃが、西軍に藩境を破られ、城下を蹂躙される様をみて、雪子さんはどんな思いであったじゃろうか。

会津は内紛で惜しい人材を亡くした。この代償はあまりにも大きかったとわしは思うが、どうじゃろうか。