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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

南朝の忠臣・結城宗広のこと…白河・関川寺へお墓参りに行ってきた件

福島県白河市の関川寺。ここに南朝の忠臣・結城宗広の墓所があった。関川寺は白河結城家の菩提寺で、開基は宗広と伝えられている。かつてここは結城氏の館だったと考えられており、鎌倉後期の土塁や堀が遺されている。

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結城宗広の生涯 

結城氏の祖は鎮守府将軍藤原秀郷の末裔・小山朝光(結城朝光)。源頼朝公の挙兵に従い武功を挙げたことから、下総国結城を領したことに始まる。結城朝光には源頼朝落胤説もあり、当主は代々源氏を称し「頼朝」の「朝」の字を通字としている。鎌倉幕府でも有数の名族といってよいじゃろう。「吾妻鑑」によれば、朝光は梶原景時失脚のきっかけをつくった人物じゃが、まあ、その話は宗広には関係ないので割愛する。

白河結城氏は、朝光の孫・結城祐広が移り住んだのが始まりとされる。祐広の子・宗広は南朝の忠臣とされるが、出自が出自だけに鎌倉との結びつきは強かった。じゃが、後醍醐天皇から討幕の綸旨を受けると、宗広は新田義貞とともに鎌倉に攻めこんだ。その功により、後醍醐天皇から厚い信任を受け、北畠顕家多賀城に入ると、陸奥将軍府評定衆としてその統治を補佐することになる。

建武の新政が破綻し、足利尊氏が京都に攻め入ると、北畠顕家とともにに奥州軍を率いて上洛、京都を奪還する。じゃが、九州に逃れた足利尊氏が再起して東上してくると、再び顕家とともに大規模な遠征軍を率いて足利軍と戦う。中央から攻められる一方の奥州が中央に攻め入ったのは、北畠顕家の2度の遠征と大坂の陣だけじゃな。

北畠顕家の2度目の遠征は利あらず、顕家はその後、高師直と戦って敗死する。このとき宗広は吉野へと逃れ、南朝再興に尽力している。その後は、義良親王を奉じて伊勢より北畠親房・伊達行朝らと海路から東国へ向かうが、海上で遭難。宗広は伊勢国安濃津で病死している。 

結城入道堕地獄事

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太平記』(結城入道堕地獄事)は、結城宗広の最期の言葉を次のように伝えている。

「我すでに齢七旬に及んで、栄華身に余りぬれば、今生に於いては一事も思ひ残す事候はず。ただ今度罷り上って、遂に朝敵を亡ぼし得ずして、空しく黄泉の旅に赴ぬる事、多生広劫までの妄念となりぬと思へ候ふ。されば愚息にて候ふ大蔵権少輔(結城親朝)にも、我が後生を弔はんと思はば、供仏施僧の作善をも致すべからず。更に称名読経の追賁をも成すべからず。ただ朝敵の首を捕つて、我が墓の前に懸け並べて見すべしと云ひ置きける由伝へて給はり候へ」と、これを最後の詞にて、刀を抜いて逆手に持ち、断歯をしてぞ死にける。罪障深重の人多しといへども、終焉にこれほどの悪相を現ずる事は、古今いまだ聞かざるのところなり。

結城入道の執念を感じる最後ではないか。そもそも『太平記』の宗広評は「十悪五逆重障過極の悪人」とありなかなかに酷い。 

咎なき者を殴ち縛り、僧尼を殺す事数を知らず。常に死人の首を目に見ねば、心地の蒙気するとて、僧俗男女をいはず、日毎に二三人が首を斬って、態と目の前に懸けさせけり。さればかれがしばしも居ゐたるあたりは、死骨満ちて屠所の如く、死骸積んで九原の如し。

生来暴虐な人物で狼藉が多く、その報いを受けて地獄に堕ちて、塗炭の苦しみを味わう様が描かれている。実際の宗広がそういう人物だったというのはにわかには信じ難い。宗広といえば、北畠顕家を支え、老骨に鞭打ち戦場を駆け巡ったイメージがあるが、その猛将ぶりがこのように伝わったのかもしれない。いずれにせよ、南朝に最後まで忠実な武将であったことは間違いなく、それは北畠顕家への極めて個人的な敬愛からのことではないかと、わしはみておる。というのも、宗広の家督を継いだ孫の名は「顕朝」じゃからな。

ちなみに、次男の結城親光は、楠木正成千種忠顕名和長年を合わせて「三木一草」と呼ばれ、足利尊氏暗殺を試みて失敗し、殺されたといわれる。親子そろっての忠義ぶりは、皇国史観にとっては好都合な人物じゃったことじゃろう。

関川寺の結城廟

ということで関川寺。もともとは関銭院と称したと伝えられ、「関銭(通行料)」を取っていたのが由来と言われる。 曹洞宗のお寺じゃが、はじめは天台宗で、白河結城氏6代直朝が中興し、関川寺と号するようになったという。本堂裏の檀家さんの墓地の一番奥に、結城廟があり、宗広もここに眠っているという。ちなみに、宗広の墓所はここ関川寺のほか、三重県津市や伊勢市にもある。

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さて、宗広の子・結城親朝のことじゃ。親朝は父・宗広の存命中に小峰氏を創始し、白河結城の家督はその子・顕朝が継いでいる。宗広は「ただ朝敵の首を捕つて、我が墓の前に懸け並べて見すべし」と遺言した。じゃが、親朝も顕朝も最終的には足利尊氏に与して、白河結城氏を存続させた。

北畠親房常陸国関城を拠点に、親朝に70通も書状を送り、南朝への合力を求めたという。じゃが、親朝はこれを黙殺した。下総結城氏が足利方に従っていたこと、情勢は明らかに北朝優位であったことから、この選択を責めることは誰もできないじゃろう。そもそも、所領給付と官位任命の権は朝廷にあると公家の優越を信じる親房の主張は、自らの手で所領を守り続けてきたと自負する親朝の心を動かすことはできなかったのは、当然かもしれぬ。まあ、黄泉の世界にいる宗広がこれをどうみていたかはわからぬがのう。