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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

井出の沢古戦場〜中先代の乱、北条時行と足利直義が激突した地

町田にある東京都指定の旧跡・井出の沢古戦場に行ってきた。中先代の乱で、北条時行軍と足利直義軍との間で、激しい合戦が繰り広げられたと伝えらるところじゃよ。

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知ってのとおり、後醍醐天皇による建武の新政は武家にすこぶる不評じゃった。そんな中で、信濃の諏訪頼重らは鎌倉幕府再興を掲げて、高時の遺児・北条時行を奉じて決起した。時行軍は後醍醐帝の新政に不満をもつ武士を糾合しながら鎌倉街道を南下し、敵を蹴散らしながら一路鎌倉を目指す。

これに依りて七月廿二日下御所左馬頭殿(足利直義)、鎌倉を立ち御向ひ有りし。同日薬師堂谷の御所において兵部卿親王(=護良親王)を失ひ奉る。御痛はしさは申すもなかなか愚かなり。

武蔵の井の出沢において戦ひ暮らしけるに、御方の勢多く討たれし程に俄に海道を引き退き給ふ。上野親王成良(なりなが)、義詮六歳にして同じく相伴ひ奉る(「梅松論」)

急を聞いた鎌倉府の足利直義は出陣に先立ち、幽閉していた護良親王を誅殺している。

父帝・後醍醐の仕打ちに「武家よりも君の恨めしく渡らせたまふ」と語っていたとされる護良親王じゃ。もし北条に身柄を奪われ結託でもされたら、それこそ親王将軍と北条執権という幕府体制が復活し、めんどうなことになりかねないからな。

現代の人からみれば、「北条時行なんぞなんぼのもんじゃ!」と思うかもしれぬが、北条得宗のブランドは、侮れないものがあったんじゃよ。この後、足利尊氏が北条時行討伐に下向するとき、征夷大将軍への就任を後醍醐帝に求めているが、これは北条ブランドに対抗するためだったと考える研究者もおるんじゃよ。

じっさい、このときの北条軍は強かった。勢いがあった。直義は井出の沢で敗北を喫し、成良親王と足利義詮を連れて鎌倉から敗走する羽目になるのじゃ。

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菅原神社の周囲は住宅地になっており、現地には案内板と石碑があるだけで、古戦場の趣はない。ただ、すぐ横を鎌倉街道が通っており、ここが鎌倉防衛の要衝であることはよくわかる。町田は高尾山から続く多摩丘陵の東端じゃから、ここを越えれば鎌倉まで平坦な道が続く。そんなわけで、直義はこの地を最終防衛ラインとし、北条軍を迎え撃ったのだろう。

もっとも、歴史は何が幸いするかわからない。もし足利直義がここで北条軍を撃退していたら、足利尊氏の下向はなく、建武の新政の破綻も室町幕府の成立もなく、歴史は大きく変わっていたかもしれんからな。知らんけど。