北条高時.com

うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

わし、北条高時は闘犬、田楽にはまって幕府を亡ぼしましたけど、なにか?

北条高時と聞けば、田楽と闘犬を思い出す人も多いじゃろう。「太平記」はわしが田楽と闘犬に耽溺して政務を怠った暗愚な人物と描いておる。もちろん、わしがそれらを愛したことは確かではある。金沢貞顕の書状にも「田楽の外、他事無く候」と記されておるし、「二条河原の落書」にも「犬・田楽ハ関東ノホロ(亡)フル物ト云ナカラ田楽ハナヲハヤル也」とある。鎌倉の釈迦堂遺跡からは、三頭の犬の骨が埋葬されているのが発掘されておるしな。

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田楽三昧
新座・本座の田楽を呼下して、日夜朝暮に弄ぶ他事無

田楽は、百姓たちが田植えの前に豊作を祈った田遊びから発達したといわれておるが、詳しいことはわからない。じゃが、鎌倉後期には、貴賤を問はず誰れも彼れもがその遊びをしておった。そこで、新座本座の田楽を呼びよせたんじゃが、これがじつに面白くてのう。だんだんはまっていき、毎夜遊び戯れておったというわけじゃ。  

また其のころ洛中に田楽を弄こと昌にして、貴賎挙て是に着せり。相摸入道此事を聞及び、新座・本座の田楽を呼下して、日夜朝暮に弄ぶ他事無。入興の余に、宗との大名達に田楽法師を一人づつ預て装束を飾らせける間、是は誰がし殿の田楽、彼何がし殿の田楽なんど云て、金銀珠玉を逞し綾羅錦繍を装れり。宴に臨んで一曲を奏すれば、相模入道を始として一族大名我劣らじと直垂・大口を解で抛出す。是を集て積に山の如し。其弊へ幾千万と云数を知らず。

ちょうどいまの宝戒寺が執権屋敷があってのう。そこで重臣たちと朝に夕に宴会をしては田楽法師に直垂や袴を投げ与えて褒美の山を築いてどんちゃん騒ぎ。いやいや、あの頃はほんとうに楽しかった。もし、鎌倉幕府が滅亡することなく、しばし続いておったなら、田楽は猿楽にかわって、日本の能楽の源流として大いに栄えておったかもしれぬのう。

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闘犬乱舞
肉に飽き錦を着たる奇犬、鎌倉中に充満して

田楽も楽しかったんじゃが、なんといっても興奮したのは闘犬じゃな。わしは諸国へ触れを出して、年貢として犬を納めさせたり、権門高家からも犬を求めたので、御家人たちも自慢の犬を十匹二十匹と飼っては鎌倉へ送り届けて来たものじゃ。犬の餌は魚や鳥で、金銀をちりばめた鎖でつないでおいたので、それなりの出費もかさんだが、天下の得宗なんじゃがら、それくらいの遊びは許してもらってもよいじゃろう。

ある時庭前に犬ども集いて、噛合ひけるを見て、此禅門面白き事に思て、是を愛する事骨髄に入れり。則諸国へ相触て、或は正税・官物に募りて犬を尋ね、或は権門高家に仰て是を求ける間、国々の守護国司、所々の一族大名、十疋二十疋飼立て、鎌倉へ引進す。是を飼に魚鳥を以てし、是を維ぐに金銀を鏤む。其弊甚多し。
輿にのせて路次を過る日は、道を急ぐ行人も馬より下て是に跪き、農を勤る里民も、夫に被取て是を舁、如此賞翫不軽ければ、肉に飽き錦を着たる奇犬、鎌倉中に充満して四五千疋に及べり。
月に十二度犬合せの日とて被定しかば、一族大名御内外様の人々、或は堂上に坐を列ね、或庭前に膝を屈して見物す。于時両陣の犬共を、一二百疋充放し合せたりければ、入り違ひ追合て、上に成下に成、噛合声天を響し地を動す。
心なき人は是を見て、あら面白や、只戦に雌雄を決するに不異と思ひ、智ある人は是を聞て、あな忌々しや、偏に郊原に尸を争ふに似たりと悲めり。見聞の准ふる処、耳目雖異、其前相皆闘諍死亡の中に存て、浅猿しかりし挙動なり。

お犬様が通るときはちゃんと輿を用意し、武士も百姓も自然にひざまづいては礼をしたもんじゃ。そして、みながお犬様を大切にしたので、肥え太つて美しく着飾ったお犬様が鎌倉中に充ち満ちて、その数は4、5千匹もいたんじゃぞ。犬合わせの遊びは月に12回、わしだけでなく御家人たちもみな、たいそう楽しんでおったんじゃ。

現代では闘犬は廃れてしまって、一部の地域しかやってないようじゃな。動物愛護の精神からすれば、闘犬は残酷のきわみじゃが、当時は中世武家の時代ゆえ、こういうこともまた好まれたということで、理解してほしい。

北条高時は暗愚であったのか?

とまあ、こんな調子じゃから、暗愚の誹りはあまんじて受けようと思う。じゃが、わしの時代の鎌倉は都市として繁栄の極みあったんじゃよ。政治的にも得宗専制により安定しておったし、朝廷も公家も、さまざまなことを鎌倉に依存し、顔色を伺っておった。たしかに東方地方では安藤氏の乱がおこり、畿内では悪党が跋扈してはおったが、ここ鎌倉にかぎっていえばその繁栄は揺るぎないものだったんじゃ。

わしが田楽や闘犬に耽溺したことも、後世では悪し様にいわれる。じゃが、それはそれだけ鎌倉が経済的にも文化的にも栄えていたからともいえるじゃろう。わしは金沢貞顕が残した書状にあるように、じつは病弱じゃった。それゆえ寝たり起きたりをくり返しており、政務に精を出したくてもそれが叶わなかった。

じゃが、 わしは阿呆ではないし、まして暴君ではない。元気な時には夢窓疎石や南山士雲ら禅僧と語らい、仏画に勤しみ、穏やかな日々を過ごしながら、世と人の安寧をひたすら願っておったんじゃ。

それこそ、後醍醐天皇なんていうとんでもないミカドが出てこなければ、鎌倉はその命脈を保ち、わしは足利義政のような文化人として評価を得ておったかもしれん。そうではないか?

とはいえ、わしが執権についてから、あっという間に鎌倉は最期のときを迎えてしまう。おそらく当時の人々で、鎌倉幕府がこんなに短期間で倒れてしまうことを見通していた者など、じっさいにはいなかったじゃろう。「国は一人を以って興り、一人を以って亡ぶ」という北宋の蘇洵の言葉が身にしみる。

じゃが、わしにも言い分はある。吉川英治の『私本太平記』で、燃えさかる東勝寺で最期のときを迎えたわしのセリフを聞いてほしい。 

この火の雨を避けたいばかりに、わしは朝廷へは、できるだけ譲って来たぞ。諸大名にも、権力をかざすなく、諸民にも、仲よく暮らせと祈って来た。人のためにではない、わしのためにだ。何よりも高時の念願は、せっかく、北条九代の裔に生れたのだから、世の人々と共に世を愉しみ、与えられた身の生涯を一代おもしろく送りたかった……。そこが暗君か。はははは、何せいこの高時、凡君にはちがいなかった。わしは暗君。わしの願望などは、たわけた痴人の夢だったぞ。

わし、北条高時は闘犬、田楽にはまって幕府を亡ぼしましたけど、なにか?