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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

楠木正成一人、未だ生きてありと聞召され候はば、聖運遂に開かるべし……

しかし、河内の悪党が大楠公じゃからのう。楠木正成という男、南朝よりの『太平記』はもちろん、北朝よりの『梅松論』でも評価は高く、その悲劇性もあり、今なお、人気を博している。

楠木正成

兵法に通じ、智謀人望ともにあり、赤坂城・千早城ではゲリラ戦を指揮し、幕府軍を手玉にとる。これで幕府の面目は丸つぶれ、その軍事力の弱体ぶりが、白日の下にさらされてしまったことが、鎌倉幕府滅亡へとつながっていった。足利高氏新田義貞の裏切りは、楠木正成の当初からの軍略にちゃんとのっとったものであったのかもしれんな。

古典『太平記』では、笠置山に兵を挙げた後醍醐帝の夢の中に初登場。南の木、つまり楠の下に座るよう夢のお告げがあったという例の話じゃ。

所は紫宸殿の庭前と覚へたる地に、大きなる常盤木あり。
緑の陰茂りて、南へ指したる枝殊に栄へ蔓れり。
其下に三公百官位に依って列坐す。
南へ向きたる上座に御坐の畳を高く敷き、未だ坐したる人はなし。 
主上御夢心地に、「誰を設けん為の座席やらん。」と怪しく思召して、立たせ給ひたる処に、鬟結たる童子二人忽然として来たって、主上の御前に跪き、涙を袖に掛けて、
「一天下の間に、暫も御身を可被隠所なし。但しあの樹の陰に南へ向へる座席あり。是れ御為に設けたる玉位にて候へば、暫く此に御座候へ。」と申して、童子は遥かの天に上がり去んぬと御覧じて、御夢はやがて覚めにけり。 主上是れは天の朕に告げたまへる所の夢也と思召して、文字に付けて御料簡あるに、木に南と書きたるは楠と云ふ字也。
其陰に南に向ふて坐せよと、二人の童子の教へつるは、朕再び南面の徳を治めて、天下の士を朝せしめんずる処を、日光月光の被示けるよと、自ら御夢を被合て、たのもしくこそ被思召けれ。 

さっそく後醍醐帝が近臣にこの夢のことを話したところ、近くに橘諸兄の後胤で毘沙門天の申し子ともよばれる「楠木正成」という悪党がいた。

そこで万里小路藤房を遣わしたところ、

「東夷近日の大逆、只天の譴を招候上は、衰乱の弊へに乗て天誅を被致に、何の子細か候べき。但天下草創の功は、武略と智謀とに二にて候。若勢を合て戦はゞ、六十余州の兵を集て武蔵相摸の両国に対すとも、勝事を得がたし。若謀を以て争はゞ、東夷の武力只利を摧き、堅を破る内を不出。 是欺くに安して、怖るゝに足ぬ所也。合戦の習にて候へば、一旦の勝負をば必しも不可被御覧。正成一人未だ生て有と被聞召候はゞ、聖運遂に可被開と被思食候へ。」

敵ながら、なんとも頼もしい男!

もっとも、楠木正成の合力については、すでに笠置山挙兵の時点で、文観のルートからとりつけてあったわけで、この話はもちろん創作なんじゃが、まあ、それをいうのは野暮というものじゃよ。

ちなみに楠木正成の出自についてはいろいろな説があるようだが、河内のあたりには「楠」という地名がないことから、土着の人物ではないとの指摘がある。現在では、楠木氏は駿河国の出の北条氏の被官であり、畿内得宗領を管理するために、河内へと赴任したのではないかという説が有力じゃ。

元弘の変で、楠木正成を攻める鎌倉の大軍が京都を埋めた正慶2年(1333年)閏2月の公家二条道平の日記には、

くすの木の ねハかまくらに成るものを 枝をきりにと 何の出るらん

と言う落首が記録されていることからも、そのことを伺い知ることができる。

あれだけの活躍をした人物なんじゃから、それなりの勢力をもっておったんじゃろう。とくに河内を中心に経済的なバックボーンがあったんじゃろうな。

とすると、北条氏は「飼い犬に手を噛まれた」ことになるわけじゃが……

いずれにせよ、正成は高氏とともに鎌倉幕府討伐の功労者であり、建武政権下では五位に昇進、河内和泉の二か国を拝領している。それなりの恩賞をもらっていただけに、最後まで後醍醐帝のために尽力したんじゃろう。