北条高時、闘犬乱舞。

うつつなき太守による歴ヲタの備忘録です

足利家時の置文~足利高氏が鎌倉幕府を裏切った理由とは?

しかし、足利高氏はなにゆえ、鎌倉を裏切ったのか? まさか、わしの愛犬に噛みつかれたことを根にもったとか? それとも、父・足利貞氏の喪も明けぬうちに、笠置攻めを命じ、仏事もろくにさせなかったことを恨んだのか? それとも……

北条への忠節のために自害した祖父・足利家時

じつは、足利家には、祖・八幡太郎義家公から代々当主に伝わる「置文」というものがあったという。そこに義家公は、「自分は七代の子孫に生まれ変わって天下を取る」と記し、その七代目には足利家時があたる。

家時の父は足利頼氏、母は上杉重房の娘で頼氏の側室であった。足利の歴代当主は、代々北条一門から正室に迎え、その間に生まれた子が嫡子となるのが通例だったが、正室北条時盛の娘)が早世したため、庶子の家時が家督を継ぐことになった。家時は足利氏では、北条一門を母としないはじめての当主ということになる。 

そんな足利家時は、弘安7年6月25日(1284年8月7日)、25歳の若さで自害している。その理由はどうもはっきりしない。

この頃、鎌倉幕府では執権・北条時宗公の内管領であった平頼綱と幕府の実力者・安達泰盛の権力闘争が激化し、時宗没後に霜月騒動がおきている。結果は泰盛が敗れ、頼綱は得宗の威を借りて専制政治をはじめることになるのだが、足利家時の自害はこれに関連したものではないかと言われている。

たとえば霜月騒動では、足利からは一族の吉良氏が泰盛に与同している。また家時の義理の継母につながる佐介流北条氏が安達泰盛の与党で、得宗家からの圧迫を受けて失脚する事件も起きている。家時もまた、こうした流れに連座して自害に追い込まれたというのじゃ。

精神的に病んでいて「うつ病」になったという話すらある。まあ、子の貞氏にも「物狂所労」という記録があったり、孫の高氏も躁うつの気があったなどといわれるから、案外、そういう面はあったのかもしれない。このあたりの真偽はなんともいえぬが、自害するくらいだから、メンタル的には相当きつかったんじゃろう。

いずれにせよ、家時は得宗家への忠節を示すために自害に追い込まれたというのは間違いなさそうじゃな。

足利家時の「置き文」~「我命をつゞめて、三代の中にて天下をとらしめ給へ」

貞氏と高師氏(大河ドラマ「太平記」より)

父・家時の自害を無念の思いで見届ける幼少の貞氏と高師氏(大河ドラマ太平記」より)

足利家時が自害した理由は確たることはわからぬが、「北条ごときが何をエラそうに! 」という思いはなんとなく垣間見れる。そこで登場してくるのが、家時の「置き文」(遺書)である。

心ならずも無念の死を遂げる家時。北条の天下は盤石で自分の代で家祖の願いを果たすことはできそうもない。そこで家時は八幡大菩薩に「三代後に天下を取らせよ」と祈願した「願文」を記し、執事の高師氏に託して自害したというのじゃ。

そして家時から数えて3代目にあたるのが足利高氏今川了俊の『難太平記』には、この「置文」について、こう記している。

さればまた義家の御置文に云ふ「我七代の孫に吾生替りて天下を取るべし」と仰せられしは家時の御代に当たり、猶も時来らざる事をしろしめしければにや、八幡大菩薩に祈申給ひて、「我命をつゞめて、三代の中にて天下をとらしめ給へ」とて御腹を切り給ひしなり。
その時の御自筆の御置文に子細は見えしなり。まさしく両御所(高氏、直義)の御前にて故殿も我等なども拝見申たりしなり。
「今天下を取る事、唯此発願なりけり」と両御所仰せ有りしなり。

もしこの「置文」の存在が事実だとすれば、貞氏、高氏は北条と婚姻を重ねながらも臥薪嘗胆、力をためて、ついに鎌倉幕府を裏切ったという見事なシナリオができあがるわけじゃが……

ただし、これ、よく読むとつっこみどころが満載である。そもそもなんで、足利だけに八幡太郎義家の「置文」が託されたのか。足利の他にも武田氏や小笠原氏といった源氏の名門はほかにもあるではないか。それに源氏による天下取りの願いは、4代後の源頼朝公が成就している(北条が簒奪したけど)。この「置文」の話は無理があるのではないか。

もちろん今川了俊が実物を見たと言っている以上、なんらか家時の遺言めいたものがあったのは確かだろう。足利直義もこれを見て感激したという書状が残っているし、やはり家時の「置文」そのものは実在したかもしれない。ただ、その内容が源氏嫡流としての「天下取り」を示唆するもので、それをもって足利高氏が討幕の兵を挙げたというのはできすぎではないか。

そもそも「置き文」の現物が残っていない以上なんともいえぬが、少なくとも室町幕府の正当性を流布するため、かなりの創作、脚色がなされていると考えたほうが良さそうではある。

足利高氏鎌倉幕府を裏切った理由(推測じゃよ)

では、なぜ、足利尊氏は鎌倉を裏切ったのか。それについて、若干の恨み節も交えて、私見を言わせてもらおう。

まず、高氏の母は上杉頼重の娘・清子である。家時と同じく、母親は北条一門ではなく、中流の公家・上杉氏の出じゃ。前にも述べたように、足利の嫡男は北条一門から正室を迎えており、その関係はつねに良好じゃった。じゃが、家時と高氏の母は例外であり、高氏もまた、赤橋から正室を迎えていたとはいえ、北条への反逆にためらいはなかったのではないか。

元弘元年/元徳3年、後醍醐天皇が笠置で挙兵した元弘の乱のとき、高氏は幕命により出兵した。高氏はこのとき、父・貞氏の喪中を理由に出兵を辞退したが許されず、「太平記」は、これが不満で高氏は幕府に反感を持つに至ったとしている。ただ、そんなことだけが動機とは考えられない。そもそも、これは承久の乱のとき、足利義氏が大将の1人として大将の北条泰時公を助けて勝利を得た先例にもとづくもの。むしろ御家人の誉ではあっても、不満をもたれては困るというものじゃ。

まあ、貞氏の喪中に戦に駆り出したことをもって高氏が不満を持ったかどうか、それはわしにはわからん。じゃが、このとき、高氏は公然と幕府に反旗をひるがえす楠木正成らをみて、北条の先行きを危ぶんだのだろう。足利と北条はすでにズブズブ。もし反北条の火の手が各地で上がれば、それはすなはち足利にも向けられることになる。

難太平記』は、高氏に決起を促したのは母清子の兄・上杉憲房であると伝えているが、「倒幕のバス」に乗り遅れぬよう、高氏は京にパイプが強い叔父から、いろいろと情報を収集していたのは確かだと思う。 そして2度目の上洛戦のとき、鎌倉方の対象名越高家があっけなく討死にした。これをみた高氏は危機感をもったにちがいない。この好機を逃すととんでもないことになる。そこで高氏は乾坤一擲、鎌倉を裏切ることを決断し、六波羅を攻めた。まあ、おおむねそんな感じではないか。

鎌倉幕府が滅亡後、尊氏は建武政権も裏切り、室町幕府をつくる。この理由についてはまたあらためたいと思うが、わしは「高時」の「高」の字を与え、後醍醐帝も「尊」の字をあげたが、けっきょくは2人とも裏切られてしまったというわけじゃ。

まあ、字なんかもらってもしょうがないということじゃな。

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