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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

お城は渡さぬ。ならぬことは、ならぬのです…八重の桜・決戦のとき

「お城は渡さぬ。ならぬことは、ならぬのです」

大河ドラマ「八重の桜」では、ドラマ前半の最大の山場、鶴ヶ城籠城戦がはじまった。新政府軍による怒涛の進撃、そして砲撃・戦闘シーンはじつに迫力ある映像の連続で、戦慄さえ覚えたぞ。

 母成峠の戦いに勝利した新政府軍は、慶応4年8月23日朝、鶴ヶ城下へとなだれこんでくる。もともと会津藩の主力は各方面の国境守備に出払っており、残っているのは予備兵力と老人子ども。まさに虚を衝かれたかたちじゃ。

そうした中、八重さんは鳥羽伏見で戦死した弟・三郎の袴を着用し、7連発のスペンサー銃を背負って入城する。「女子に戦はできぬ!」と言い放つ神保内蔵助佐川官兵衛に、八重さんが毅然として「できるっ!」と言い返したシーンは最高じゃったしでし、胸がつまった。

八重「今、この時にそった昔ながらの考えでなじょしますか。これは男だけの戦いではねえなし。都から傷だらけになって帰って来たみなさまを見だときから、帰って来なかった家族を待ち続けたあの時から、男も女子もねえ。これは会津すべての戦いだ。私を戦に加えっせ。私の腕はお役に立つ。それを使わねえなら、戦いを放棄したと同じこと。私は山本覚馬の妹だ。鉄砲のことならだれにも負げねえ。敵にお城は渡さぬ。仲間がやられるの、黙って見るつもりはねえ。私たちの大事な故郷・会津は、この手で守る」 
内蔵助「…んだら 心行くまで戦うべ。行くぞ」 
官兵衛「会津武士の姿、目に焼き付けてくれる!」
「私は山本覚馬の妹だ。鉄砲のことならだれにも負げねえ」というこの言葉は、内蔵助の心をつかんだじゃろう。いやいや、八重さん、頼もしい。
 
砲煙の中での戦闘シーンも迫力満点で、史実でもこの日、八重さんは北出丸で少年たちを指揮している。
八重「敵は堀のすぐ外だ。旗の近くにいるのが侍大将だ。よーぐ狙えば必ず当たる。合図したら一斉に撃ちなんしょ!さすけねぇ。私がいっしょだ。んだら、行ぐべ!」
きっと実際の八重さんも、不安になる少年たちを、このドラマのシーンのように勇気づけていたのじゃろう。
八重さんが大山巌を狙撃したシーンも痛快じゃった。大山巌薩摩藩二番砲兵隊長として従軍していたが、この日、たしかに鶴ヶ城大手門前で会津側の射撃により、右股を撃ち抜かれている。これが八重さんのスペンサー銃の銃弾である可能性は十分にありえるじゃろう。
 
とまあ、八重さんに関する場面はなかなか痛快だったりするわけじゃが、ドラマ全体としては、つぎからつぎへと悲劇が連続てんこ盛り。この日も、西郷頼母一族の自決、飯盛山での白虎隊の悲劇など心の準備はできていたのですが、さすがにきつくい。そして来週には中野竹子さんも……orz

そして、印象的だったのが神保内蔵助田中土佐が腹を切る場面。

 
「いま切る腹をあん時(京都守護職を拝命したとき)に切っておけば……」「家老一同、腹切ってお断りすれば、会津はこげなことにならずにすんだ」と述懐する土佐。
「もういうな。俺たちは徳川のためでも幕府のためでもなく会津のために戦った。これ以上の名誉はない」とこたえる内蔵助。そして、ふたりは「生まれ変わる時はまた会津で」と言い残して自刃する。
文久2年8月1日、田中土佐西郷頼母とともに、京都守護職拝命を「薪を背負って火を防ぐようなもの」と反対した。しかし容保の意志は固く、家臣も「君臣唯京師の地を以て死所となすべきなり」と肩を合わせて泣き崩れたという。
田中土佐の胸中、さぞかし辛かったじゃろう。