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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

新田義貞と稲村ヶ崎…投げ入れし剣の光あらわれて千尋の海もくがとなりぬる

早朝の稲村ヶ崎明治天皇御製「新田義貞

投げ入れし剣の光あらわれて千尋の海もくがとなりぬる
 

元弘3(1333)年5月、新田義貞は三方から鎌倉に攻め込んできた。極楽寺切通からは大館二郎宗氏、江田三郎行義を大将に十万余騎。巨福呂坂からは堀口三郎貞満、大島讃岐守守之が率いる十万余騎。そして新田義貞、義助は50万7000余騎を引き連れて化粧坂から押し寄せる。

しかし鎌倉は三方を山に囲まれ、一方が海に面し、攻めるに難く守るに易い城塞都市。
わが北条もまた、必死の抵抗で新田軍の侵入を許さない。そこで新田義貞は海側から幕府軍の背後を突こうと企て、稲村ヶ崎へとやってくる。

義貞馬より下給て、甲を脱で海上を遥々と伏拝み、竜神に向て祈誓し給ける。「伝奉る、日本開闢の主、伊勢天照太神は、本地を大日の尊像に隠し、垂跡を滄海の竜神に呈し給へりと、吾君其苗裔として、逆臣の為に西海の浪に漂給ふ。義貞今臣たる道を尽ん為に、斧鉞を把て敵陣に臨む。其志偏に王化を資け奉て、蒼生を令安となり。仰願は内海外海の竜神八部、臣が忠義を鑒て、潮を万里の外に退け、道を三軍の陣に令開給へ。」と、至信に祈念し、自ら佩給へる金作の太刀を抜て、海中へ投給けり。真に竜神納受やし給けん、其夜の月の入方に、前々更に干る事も無りける稲村崎、俄に二十余町干上て、平沙渺々たり。横矢射んと構ぬる数千の兵船も、落行塩に被誘て、遥の澳に漂へり。不思議と云も無類。 

太平記」にある、有名なエピソードじゃ。龍神が潮を引かせたというのは、もちろん嘘じゃが、ここを破られた鎌倉がその後、どうなったかはご存知のとおりかと……ゆえに、きょうはふれない。

ただ、挙兵から2週間で、あっという間に鎌倉を落とした義貞も、建武の新政が瓦解するや、足利尊氏に敗れ、北陸におち、越前国藤島の燈明寺畷で戦死する。

世間一般では凡将・愚将と評価されがちな義貞。憎き敵じゃが、そのいっぽうで何をやっても裏目になる生き方は、敵ながらものすごくシンパシーを感じるのじゃが……