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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

女傑か?悪女か?鬼女か? 尼将軍北条政子「産湯の井戸」にて思う……

韮山の北条氏邸・円成寺跡の東側、伝堀越御所跡の向かいに「尼将軍北条政子産湯の井戸」。

 


史跡を示す石碑は、東急グループ五島慶太によるもの。これは、かつてこのあたりの土地を東急グループが所有していたからだそうじゃ。

Wiki先生によれば、近隣の人々の間には、この井戸に安産を願うという信仰もあったそうじゃが、実際のところ、この井戸は江戸時代以降につくられたものらしい。

 
 

政子殿は保元2年(1157)8月、北条時政公の長女として生まれた。

妹の吉夢を買って、源氏の御曹司と恋仲におち、父親の反対をおしきり、駆け落ちまでして恋を成就させた政子殿。この一途な恋が、頼朝公を鎌倉殿の地位にまでおしあげることになるのだが、その情熱ゆえ頼朝公の浮気を許せず愛妾に報復して一悶着おこしたりもしている。

また、夫亡き後は息子を将軍の座から引きずり下ろして出家させたかと思えば、後妻におぼれておかしくなった父親を弟と結託して追放し、頼朝未亡人として権力をふるうなど、とにかくすさまじい鬼女ぶりも。

実朝公の死で源氏将軍が途絶えると、京都から適当な男児を迎えて傀儡将軍にすえつけ、自らが尼御台として幕府権力を掌握。

そして承久の乱では「亡き頼朝公の恩義を忘れたのか!」と御家人を鼓舞して、京都軍を退け、後鳥羽上皇らを配流に処し、幕府権力を盤石のものとする。

さらに弟・義時の死後は、その後妻・伊賀の方とその縁者を追い落として、泰時公を三代執権にすえ、嘉禄元年(1225)7月11日に没。享年69。

……とまあ、政子殿の人生をざっくり出来事ベースでふりかえっていくと、なんともすさまじい女傑じゃのう。いまでは、阿野廉子日野富子とともに三大悪女ともよばれているとかw

とはいえ、頼朝公との間に生まれた子どもたちは、みな悲しい末路を迎えており、政子殿が生きた時代の史実・事件の挾間を「母」としての心の襞で埋めながら思い致すとき、時代とか歴史に翻弄された女性という見方もできないわけではない。

いや、尼将軍ともよばれる政子に対して「翻弄」なんていう言葉は、やはり失礼じゃろう。

ともかく、永井路子さんの『北条政子』を、今度あらためて読み直してみるし。

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