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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

えっ、坂本龍馬の「船中八策」ってフィクションだったのか?

今日11月15日は幕末のヒーロー、坂本龍馬 の誕生日であり、暗殺された日。誕生日と暗殺された日が同じというところは、いかにも龍馬らしい。ところで、「坂本龍馬 船中八策はフィクションだった」という話を聞いた。龍馬ファンにとっては聞き捨てならないかもしれんが、どうやらこれはほんとうのようじゃ。

 「船中八策」は後世の創作だった?

船中八策」は慶応3年(1867年)6月、坂本龍馬土佐藩船の夕顔丸で後藤象二郎に提示した新政権の構想というべきもので、海援隊の長岡謙吉が書きとめたとされている。

この龍馬の意見を後藤象二郎山内容堂に献策。これが徳川慶喜による大政奉還につながっていったといわれておる。

一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事。
一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事。
一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。
一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
一、海軍宜シク拡張スベキ事。 一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。
一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。
以上八策ハ方今天下ノ形勢ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ徴スルニ、之ヲ捨テ他ニ済時ノ急務アルナシ。苟モ此数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、万国ト並行スルモ、亦敢テ難シトセズ。伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ、一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン。

しかし、この有名な「船中八策」じゃが、そもそも長岡が書きとめた自筆の現物が存在しない。また、同時代の資料でも、このことは出てこないことから、史家の間では存在そのものがあやしいとされてきた。

もちろん「新政府綱領八策」という龍馬の政権構想に関する文書は現存しているが、日付は大政奉還後の11月のもの。龍馬がこうした構想をもっていたことは間違いないじゃろうが、それ自体は龍馬オリジナルでもなんでもなく、横井小楠大久保一翁ら当時の有識者はみなもっていたアイデアであり、その他の提示内容もごくごくありふれたものにすぎないという。

このお話は、一介の名もなき郷士が「船中八策」により、土佐藩を動かし、徳川慶喜大政奉還を実現させたことがおもしろいわけで、これが後世の創作だったとすれば、いささか拍子抜けな感じは否めないところじゃ。

薩長同盟の立役者というのも過大評価?

また、薩長同盟の立役者であるというのも疑義が呈されている。小説などでは、同盟のための会談が行われている薩摩藩邸に龍馬が到着すると、桂が「西郷がなにも言い出さないから俺は帰る」といいだし、龍馬が西郷に「それでは長州がかわいそうじゃないか」とつめより、薩長同盟が成立したという逸話が出てくる。この経緯そのものは、たしかに桂小五郎も日記に記している。

じゃが、最近の研究によると、薩長同盟そのものは龍馬が主導したわけではなく、龍馬は薩摩藩の指示によって周旋していたにすぎないというのじゃ。もしそうだとすると、スケールダウンは否めんのう。

そのほかにも、龍馬が乙女姉さんに書いた手紙の中の「日本を今一度せんたくいたし申候」という名言は横井小楠(←鎌倉北条氏の子孫じゃよ)「天下一統人心洗濯希うところなり」という口癖のパクリだったとか、いろいろあるようじゃ。

このように、龍馬がどんどんヒーローに仕立て上げられていくネタづくりがせっせとすすめられた背景には、明治政府における土佐出身者の事情があったといわれる。
明治政府は薩長土肥といわれるが、じっさいには薩摩と長州が牛耳っていて、どうしても土佐は分が悪い。劣勢を挽回するために、「坂本龍馬」という英雄を創りあげていったのではないか、というのじゃ。

ちなみに一般の人に龍馬の名前が知れ渡るようになるのは、明治16年(1883年)、高知の『土陽新聞』に、坂崎紫瀾の『汗血千里の駒』が発表されてからのこと。大河ドラマ龍馬伝』でも、岩崎弥太郎に坂崎紫瀾が取材するシーンが出てきてたよね。

日露戦争の頃には、なんと昭憲皇太后の夢枕に坂本龍馬が白装束で現れる。「誓って皇国の御為に帝国海軍を護り奉る」と奏上し、日本海軍の勝利を約束したというのじゃ。
この話も当時、土佐出身で宮内大臣だった田中光顕が仕掛けたといわれている。
もちろん真偽のほどはわからんが、このことが新聞に掲載され、龍馬は日露戦争で国民を鼓舞するのに一役買ったことは確かなのじゃ。

そして戦後はもちろん、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』。現代人の龍馬への評価はこの小説によって創られたといってもよいじゃろう。「日本ではじめて新婚旅行に行ったのは龍馬とお龍だった」というネタも出処はここからだそうじゃ。

以後、龍馬は映画に、小説に、コミックにどんどんヒーローとして登場する。福山雅治さんの大河ドラマ龍馬伝』での好演は、記憶に新しいところじゃ。かくして虚実ないまぜに描かれながら、坂本龍馬はどんどん国民的英雄になっていったというわけじゃが、当のご本人さんは、あの世でどう思っているのかのう。

同時代人の坂本龍馬の評価

とはいえ、いまさら「龍馬なんて大した人物じゃない!」というのもどうかと思う。英雄があることないこと脚色され、解釈されていくのは、龍馬にかぎったことではない。問題なのは同時代人の評価じゃ。ということで、いくつか拾ってみまた。
  • 武市半平太「肝謄元雄大、奇機自ら湧出、飛潜誰か識る有らん、偏に龍名に恥じず」
  • 中岡慎太郎「龍馬君は、さすが才子なり」 
  •  陸奥宗光「龍馬あらば、今の薩長人などは青菜に塩だね。維新前、新政府の役割を定めたる際、龍馬は世界の海援隊云々と言えり。この時龍馬は西郷より一層大人物のように思われき」 
  • 土方久元 「維新の豪傑としては、余は西郷、高杉、坂本の三士を挙ぐべし。三士共に其の言行頗る意表に出で、時として大いに馬鹿らしき事を演じたれど、又実に非凡の思想を有し、之を断行し得たりし」  
  • 板垣退助 「豪放不埒、是れ龍馬の特質なり。到底吏人たるべからず。龍馬もし不惑の寿を得たらんには、恐らく薩の五代才助、土の岩崎弥太郎たるべけん」
  • 佐々木高行「坂本は目的を定めなば必ず之を達する手段を講究したり」 
  • 三吉慎蔵 「過激なることは毫も無し。かつ声高に事を論ずる様のこともなく、至極おとなしき人なり。容貌を一見すれば豪気に見受けらるるも、万事温和に事を処する人なり。但し胆力が極めて大なり」
  • 千葉佐那「私は心を定めて良い縁談をも断り、唯ひたすら坂本さんを待ちましたが、忘れもしない慶応三年十二月、三十一歳になっていた私は坂本さんが十一月十五日京都で暗殺されたことを知らされました」 
  • 楢崎龍「龍馬は、それはそれは妙な男でした。丸で人さんとは一風違って居たのです。少しでも間違った事はどこまでも本を糺さねば承知せず、明白にあやまりさえすれば直にゆるして呉れまして、此の後は斯く斯くせねばならぬぞと、丁寧に教えて呉れました」 
  • 今井信郎 「土佐は恐るるに足らぬが一人の坂本が恐ろしかりき」 
  • 勝海舟坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなかの人物さ。その時、おれは笑って受けたが、沈着いてな、なんとなく冒しがたい威権があって、よい男だったよ」
  • 大久保一翁 「龍馬は土佐随一の英雄、謂わば大西郷の抜目なき男なり」
  • 永井尚志 「後藤(象二郎)よりも一層高大にして、説く所も面白し」
  • 伊藤博文 「坂本龍馬は勝安房(海舟)の門人で、壮年有志の一個の傑出物であって、彼方へ説き、こなたへ説きして何処へ行っても容れられる方の人間であった」
  • 横井小楠 「坂本君、君は考え一つ違えば乱臣賊子になる恐れがある。ご注意あれ」  
  • 西郷隆盛「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの未だ嘗て之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」
ほかにもたくさんあるようじゃが、こうしてみると、やはり龍馬は人気者。たしかに、いろいろ創作されているのは確かじゃが、これほどまでに同時代人に評価されているわけじゃからのう。それほどの人物でなければ、暗殺などされることもなかったじゃろうし、その下手人と黒幕の存在など、だれも興味を持ったりしない。
「頗る亡気(うつけ)の躰にて、将軍家の執権も叶い難かりけり」「田楽の外無他事候」「連日御酒、當時何事もさたありぬとも不覚候、歎入候」とだけ記されて暗愚よばわりされておしまいのワシとは、ぜんぜんちがうようじゃ。