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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

梶原景時のこと~頼朝の股肱の臣なのに、なぜそんなに嫌われたのか

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習のため、13人を順番にまとめていく4人目は梶原景時。源頼朝公の命の恩人ともいうべき側近中の側近じゃが、義経殿の悪口を讒言してたなどといわれ、何かと評判がよろしくない。ちなみに、大河では中村獅童さんが演じることになっているぞ。

馬込万福寺蔵の梶原景時像

馬込万福寺蔵の梶原景時像(Wikipedia)

頼朝公の窮地を救う

梶原氏は坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族。後三年の役で八幡太郎源義家公のもとで戦い、武勇を謳われた鎌倉権五郎景正は、景時の曾祖父とも従曾祖父ともいわれておる。

治承4年(1180年)、石橋山の合戦でのこと。大庭景親に敗れ、土肥の椙山のしとどの窟(現・神奈川県湯河原町)に隠れていた源頼朝公を景時が見逃した逸話は、つとに有名じゃな。『吾妻鏡』治承4年8月24日条にはこうある。

景親武衛の跡を追い、嶺渓を捜し求む。時に梶原平三景時と云う者有り。慥に御在所を知ると雖も、有情の慮を存じ、この山人跡無しと称し、景親が手を曳き傍峰に登る。

このくだり、軍記物の『源平盛衰記』では、よりリアルに描かれている。頼朝公は土肥実平、岡崎義実、安達盛長ら6騎と洞窟に隠れていたが、そこへ大庭景親が捜索にやって来て、この臥木が怪しいと言い出す。そこで景時が洞窟の中に入ってみると、頼朝公と鉢合わせになった。観念した頼朝公は「もはやこれまで」と自害しようとする。しかし、景時はこれを止めて洞窟を出ていき、「蝙蝠ばかりで誰もいない、向こうの山が怪しい」と言った。景親はそれでも洞窟に入ろうとしたため、景時は「お前はわたしを疑うのか」と詰め寄ったため、景親はその場を立ち去ったという。

土肥の椙山のしとどの窟

土肥の椙山のしとどの窟

頼朝公の股肱の臣となる

こうして九死に一生を得た頼朝公は、その後、安房国へ逃れて再起し、東国武士を従えて鎌倉に入る。富士川の戦いで平家が大敗すると、大庭景親は斬首されたが、景時は土肥実平を通じて頼朝公と面会する。命の恩人であり、しかも「言語を巧みにするの士」であった景時は頼朝公の賢慮に叶い、股肱の臣となっていくわけじゃ。

寿永2年(1183)、頼朝公は、房総半島に巨大な勢力をもつ実力者・上総広常を謀反の疑いで誅殺したが、それを実行したのも梶原景時じゃ。景時は頼朝公の意を受けて広常の屋敷を訪ねる。そしてふたりは双六をはじめ、景時は隙を見て双六盤をこえ、広常の首を掻き切ったという。

広常暗殺は謀反などではなく、頼朝公との政治路線の違いが原因とされるが、ここではふれない。じゃが、景時は頼朝公を意図を解して任務を全うしており、絶大な信頼を得ていたということなんじゃろう。

梶原の二度駆け 

梶原景時というと文官のイメージが強い。他の武将の報告が「勝ちましたー」だけなのに比べ、景時のそれはじつに微に入り細に入り、頼朝公を満足させたという。ただ、もちろん文弱というわけではない。

義経殿の「鵯越え」で有名な一ノ谷の戦いでは、景時は範頼殿の軍に属して息子の景季・景高とともに戦い、生田口を守る平知盛を破って大いに武功をあげている。

この戦いで景時の次男・景高は敵中に単騎突入する。景時はこれを救うため、長男・景季とともに攻め入るが、今度は景季が戻ってこない。そこで景時は再び敵陣に突入し、奮戦したのだという。

いわゆる「梶原の二度駆け」と呼ばれる働きである。かくして一の谷の合戦は源氏の大勝に終わり、この戦いで景季は平重衡を捕えている。 

義経への讒言

そんな景時じゃが、源義経殿の悪口をいいまくり、彼を死に追いやったということで、後世頗る評判が悪い。じっさい、義経殿と景時はウマがあわなかったようじゃ。

逆櫓の論争というのがある。屋島の戦いのとき、景時は船の進退を自在にするために櫓を船の前部に取り付けるよう義経殿に進言した。すると義経殿は、「はじめから逃げる事を考えては戦には勝てない」「俺の船には不要だ。お前の船には付けたらよいだろう」と嘲笑した。景時は、「前後も弁えずに突進するのは猪武者と申す」と諫めたが、義経は「猪だは鹿だか知らんが、戦は攻めて勝てばよい」ととりあわなかったという。

壇ノ浦の合戦でも、ふたりはもめている。軍議の席で景時は先陣を望むが、義経殿は自分がやると断る。景時は「あなたは大将軍ですよ」と言うと、義経は「いやいや、大将軍は鎌倉殿(頼朝公)であり、私は貴殿らと同じだ」 と言い返す。景時は 「こいつは主君にはなれないな」 とぼやくと、義経殿はこれを聞き逃さず「日本一の愚か者!」と太刀の柄に手をかける。景時もまた「私にとっても主君は鎌倉殿だけだ」と太刀の柄に手をかけ、周囲を巻き込んで大乱闘になりそうになる。三浦義澄や土肥実平が間に入ってなんとか事を収めるが、これ以降、景時は義経殿を憎んで、頼朝公に讒言したというのじゃ。

壇ノ浦古戦場址の碑

壇ノ浦古戦場址の碑(山口県下関市)

いずれも『平家物語』の逸話で、真偽の程はわからない。ただ『吾妻鏡』元暦2年4月21日条には、景時の義経への恨みつらみがさんざんに記録されている。

また曰く、判官殿君の御代官として、御家人等を副え遣わし、合戦を遂げられをはんぬ。而るに頻りに一身の功の由を存ぜらるると雖も、偏に多勢の合力に依らんか。 謂うに多勢の人毎に判官殿を思わず、志君を仰ぎ奉るが故、同心の勲功を励ましをはんぬ。仍って平家を討滅するの後、判官殿の形勢、殆ど日来の儀に超過す。士卒の所存、皆薄氷を踏むが如し。敢えて真実和順の志無し。就中、景時御所の近士として、なまじいに厳命の趣を伺い知るの間、彼の非拠を見る毎に、関東の御気色に違うべきかの由、諫め申すの処、諷詞還って身の讎と為る。ややもすれば刑を招くものなり。合戦無為の今、祇候の拠所無し。早く御免を蒙り帰参せんと欲すと。 

「義経殿は自分ひとりの手柄だと思い込んでいる」「義経殿は増長してのさばっている」「兵達の中で本当に従っている者はいない」「諫言すると死刑にされそうだ」「もう帰りたい」と言いたい放題である。

参州(範頼)は、本より武衛の仰せに乖かざるに依って、大小の事常胤・義盛等に示し合わす。廷尉(義経)は、自専の慮りを挿み、曽って御旨を守らず、偏に雅意に任せ自由の張行を致すの間、人の恨みを成す。景時に限らずと。 

そして、『吾妻鏡』の記録者は、「範頼殿は何事も周囲に相談するが、義経殿は我儘勝手なので景時以外からも恨みを買っている」とわざわざ付記しているくらいじゃし、あるいは讒言ではなく、事実であったのかもしれない。

「義経の馬引き事件」にもあるように、義経殿は頼朝殿の弟としてふるまったが、頼朝公は家臣としてしか見ていない。そもそも頼朝公は御家人の利益の代表者として君臨しているものの、その立場は盤石ではない。義経殿にはそれがわからず、空気も読めない。兄弟不和の直接の原因は義経殿が勝手に官位をもらったことであり、景時は讒言者などではなく、体を張って義経殿に諫言した忠義者といえるのではないじゃろうか。

景時は実務能力も高い官僚タイプで、頼朝公の信頼も厚かった。ただ、こういうエリートタイプは、石田三成などと同様で、どうしても鼻持ちならないというか、いけ好かんというか、ほうぼうがら疎まれるようじゃ。

梶原景時の失脚

正治元年(1199年)正月に頼朝公が没すると、景時は引き続き宿老として2代将軍・源頼家公にも重用された。4月に若い頼家公の政務が停止され、十三人の合議制が置かれたとき、景時もこれに列している。じゃが、その後まもなく、景時は失脚する。

あるとき、結城朝光が「忠臣は二君に仕えずという。頼朝公が亡くなった時に出家すればよかった」と言ったことが景時の耳に入った。景時は、そのことを頼家公にちくったが、政子さまの妹の阿波局が偶然、そのやりとりをふすま越しに聞いていたらしく、朝光に、景時があなたを頼家公に讒言したと報せた。

驚いた朝光が御家人たちに相談すると、「景時め、けしからん!」とみなが激高し、御家人66名による弾劾状を作成し、頼家に提出した。頼朝公没後、景時に対する御家人の不満が噴出したのじゃ。

このとき、景時は弁明することなく一族とともに所領の相模国一ノ宮の館に逼塞する。そして正治2年(1200年)正月、景時は一族を率いて上洛の途についた。しかし、駿河国清見関で、偶然居合わせた在地の武士たちと戦闘になり、嫡子・景季、次男・景高、三男・景茂が討たれ、景時も自害して果てた。『吾妻鏡』では、景時の上洛は九州の兵を集め、清和源氏の流れをくむ武田有義を将軍にすえようと反乱を企てたとし、以下のように記している。

凡そ景時二代の将軍家寵愛を誇り、傍若無人の威を振るう。多年の積悪、遂にその身に帰するの間、諸人向背を為すなり。 

ほんとうに景時に反乱の意思があったのかはわからない。たんに都の武士となるべく鎌倉から引いただけという説もある。そこはわしにもわからない。

梶原景時終焉之地(静岡市葵区)

梶原景時終焉之地(静岡市葵区)

ちなみに、九条兼実の『玉葉』では讒訴の内容は頼家公に代えて千幡君(のちの源実朝公)を将軍にする動きがあることを報告したものだとしている。事実、その3年後に頼家公は暗殺され、実朝公は将軍となる。そして、比企能員、畠山重忠、和田義盛ら有力御家人たちはつぎつぎに粛正され、最終的に北条家が政治の実権を握っていく。そもそも、阿波局がふすま越しにきいていたというのも変じゃし、景時が殺害されたのは北条の勢力下の駿河である。それゆえ、「北条が怪しい!黒幕は北条だ!」「『吾妻鏡』はうそを書いている!」という陰謀論も、まことしやかにいわれておる。うるさい景時がいなくなったことは北条にとって好都合だったというのじゃ。

まあ、そういう陰謀論はたしかにおもしろいが、でも証拠がない。そもそも北条時政公も義時公も景時弾劾状に名を連ねていないわけだし、これは濡れ衣というものじゃよ。

慈円は『愚管抄』で景時を庇えなかったのは頼家の「不覚」と結論づけているし。

コレヨリ先ニ正治元年ノ比。一ノ郎等ト思ヒタリシ梶原景時ガ。ヤガテメノトニテ有ケルヲ。イタク我バカリト思ヒテ。次次ノ郎等ヲアナヅリケレバニヤ。ソレニウタヘラレテ景時ヲウタントシケレバ。景時國ヲ出テ京ノ方ヘノボリケル道ニテウタレニケリ。子ドモ一人ダニナク。鎌倉ノ本躰ノ武士カヂハラ皆ウセニケリ。コレヲバ頼家ガフカクニ人思ヒタリケルニ。ハタシテ今日カカル事出キニケリ。

もっとも、頼家公が景時を庇うことは難しかったとわしは思うぞ。かりに頼家公が弾劾状を却下したりすれば、御家人たちの不満は爆発したじゃろう。それがわかっていたからこそ、景時は弁明しなかったのかもしれない。頼家公の立場を案じての身を引いた景時は、やはり忠義者だったのかもしれぬな。

じっさい、これまでの景時は、義経殿を讒言した敵役として、すこぶるイメージが悪かった。じゃが、近年では教養があり、頼朝公頼家公に真摯に仕えた忠臣だったと再評価もなされている。

このあたりの評価の二面性も、石田三成と似ているな。頭がよくて弁が立つが、どんなに正しいことを言っても、なぜか周囲の者に嫌われる。こういう人間はいつの時代にもいる。

やはり、わしのように、多少はつむりが悪くても、人間は愛嬌がないといかんのじゃよ。