師走のあわただしさのなか、連日、忘年会が続く今日この頃。
わしも「今日は無礼講で!」なんていわれて、つい調子にのって飲み過ぎて評判を落とさぬよう、自戒しておるところじゃ。
ところで、日本史上でもっとも有名な無礼講といえば、やはり「太平記」に出てくる「無礼講」じゃろう。
日野俊基には諸国行脚を命じ、鎌倉に不満をもつ者を説いて回らせる。後醍醐天皇は自分の兵をもたないからね。で、その結果、美濃の土岐頼兼、多治見国長らを味方に引き入れることに成功。連日、文学談にことよせ、「無礼講」という奇妙な寄合を開き、密議を重ねていく。
メンツは、花山院師賢、四条隆資、洞院実世、日野俊基、日野資朝、伊達三位房遊雅、聖護院の法眼玄基、足助次郎重成、多治見国長ら。事は承久の変以来の一大事、日野資朝らは、多治見国長、土岐頼貞(じっさいは頼兼とも)が本心から同心しているのか、それを乱痴気騒ぎの中で見極めたかったのかもしれん。
其 交会遊宴ノ体、見聞耳目ヲ驚セリ。献盃ノ次第、上下ヲ云ハズ、男ハ烏帽子ヲ脱デ髻ヲ放チ、法師ハ衣ヲ不着シテ白衣ニナリ、年十七十八ナル女ノ見目形優ニ、膚殊ニ清ラカナルヲ二十余人、褊ノ単ヘ計ヲ着セテ、酌を取セケレバ、雪の膚スキ通テ、大液ノ芙蓉新ニ水ヲ出タルニ異ナラズ。山海ノ珍物ヲ儘シ、旨酒ノ如クニ湛テ、遊戯舞歌フ。其間ニハ、只東夷ヲ可亡企ノ外ハ他事ナシ。
となると、これこそまさに無礼講! 高貴な方々に酌をされ、「帝の御為に、いまこそ源氏が…」などともちあげられ、土岐頼貞も多治見国長も、いよいよ意を固くしたのか。かくして、北野社の祭礼の日のどさくさに紛れて、六波羅に攻め入ることが決定されたのである。
しかし……事は思わぬところから露見する。無礼講に参加していた土岐頼貞の弟・頼員(船木頼春)が、この大胆な計画に恐れをなしたのか、ある夜、妻に討幕の密議をポロリと漏らしてしまう。頼員の妻は六波羅探題の奉行・斉藤利行の娘で、「こんな大それたことがうまくいくはずがない」と父親に通報。報せを受けた六波羅探題・北条範貞は、悪党退治を名目に兵を集め、正中元年(1324)9月19日早朝、多治見、土岐の宿所を急襲した。
錦小路高倉にいた多治見国長を襲ったのは小串範行。午前8時頃から4時間に渡って激闘が繰り広げられたが、衆寡敵せず、多治見国長は自刃した。
また三条堀川にいた土岐頼貞は山本時綱が襲撃。時綱と頼貞の一騎打ちの場面もあったが、最後は頼貞が寝所に逃げ込み、腹を切っている。
以上が「太平記」による事の顛末、世にいう正中の変のあらましじゃ。
で、この後、後醍醐天皇は万里小路宣房を鎌倉に遣わし、ひたすら釈明につとめるが、ここで奇妙なことがおこる。
万里小路宣房が持参した後醍醐天皇の告文を北条高時が読もうとすると、二階堂道蘊がこう諫言した。
「天皇が武臣に直接告文をお下しになられたことは例がございません。不用意に御覧になると、神仏の祟りがあるかもしれません。ここは文箱を開かず、そのままお返しなさるがよろしいかと……」
万里小路宣房が持参した後醍醐天皇の告文を北条高時が読もうとすると、二階堂道蘊がこう諫言した。
「天皇が武臣に直接告文をお下しになられたことは例がございません。不用意に御覧になると、神仏の祟りがあるかもしれません。ここは文箱を開かず、そのままお返しなさるがよろしいかと……」
しかし、わしはそんなことは気にもとめない。
「なんの、かまうことがあるものか。おい、利行、読め!」
そこで斉藤利行が告文を読み上げることになるのだが……
「……わが心に偽りのない事は天つ神が御存知……うわ、ぐえ!」
利行はとつぜん目眩いを起こし、鼻血を吹き出す。そして7日後、喉に悪性の腫物が出来て、血を吐いて死んでしまったのじゃ。