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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

北条政子の大演説「皆心を一にして奉るべし」~承久の乱で鎌倉を勝利に導く

承久の乱の勝利により、北条の政権基盤は確固たるものになったのだが、第一の殊勲は、やはり尼将軍・北条政子さまであろう。

北条政子

北条政子

なお、なぜ、承久の乱が起こったのか。その経緯はこちらを読んでもらうとして…

takatokihojo.hatenablog.com

「頼朝公のご恩を忘れるな!」尼将軍が一喝!

後鳥羽院挙兵の報に鎌倉は動揺したが、政子さまは御家人たちに頼朝公の御恩を切々と訴えたという。

皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸祿と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ浅からんや。而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代将軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に参らんと慾する者は、只今申し切るべし (『吾妻鏡』)

「皆、心を一つにして聞くように。これが私の最後の言葉です。亡き頼朝公は、朝敵である平家を倒し、関東に幕府を開いて以降、朝廷より官位を頂き、俸禄を与えられ、その恩は山よりも高く海よりも深い。報謝の気持ちは決して浅いものではないはずです。ところが今や逆臣どもの讒言によって、後鳥羽院は幕府追討の非義の綸旨を出されました。名を惜しむ御家人ならば、ただちにこのような偽りの綸旨を出させた藤原秀康、三浦胤義等を討ち取り、亡くなられた三代の将軍の遺業を全うすべきです。ただし、もし院にお味方したいと言う者がいるのならば、たった今、それを明らかにし、この場を去りなさい」 

集まった武士たちは、全て政子さまの下知に感激して涙を流し、言葉もなかったという。ひたすらに命をかけて頼朝公と幕府の恩に報いることを誓ったのじゃ。

これぞまさに尼将軍。 政子さまならではの大仕事といえる。そもそも追討令が出された義時公本人は、すでに出る幕なし。義時公は政子さまのの横で、ひたすら小さくなっているしかなかったのじゃ。なんせ、朝敵なのじゃから。朝敵にされた者の気持ちは、たぶん、みなにはわからんじゃろうな。

それにしても政子さまの熱弁がすごい。「将軍に御恩は受けたけど、義時は関係なくね?」「話をすりかえてんじゃねえよ!」とかいう疑問も圧殺してしまう勢いである

朝敵がなんだ!院がなんだ! かくして、鎌倉はここに一丸となる。

わしのときにも、政子さまのような存在がいてくれたら……などといっても仕方がないか。

ちなみにこれは、大河ドラマ草燃える」の一場面じゃよ。

北条政子の大演説

大河ドラマ草燃える」より、北条政子の大演説

大江広元の好判断

さらに好判断だったのが大江広元である。当初、義時公や時房公は上皇の軍勢を箱根で迎え撃つ作戦を立てていた。しかし大江広元は、京への積極的な出撃を主張した。

敵は「治天の君」である。戦が長引けば長引くほど、心変わりする御家人も出てきて、幕府は不利になりかねない。こうした広元の主張を政子さまが裁決し、鎌倉軍は即日進発することになる。

もし鎌倉軍がグズグズと引きこもっていたら……国を二分して戦は長引いたかもしれまない。さすれば厭戦気分も出てくるし、そもそも「なんで俺たち、義時のために戦ってるんだ?」ということにもなりかねない。それこそ三浦、足利あたりがあっさりと後鳥羽院に寝返ったかもしれぬ。

そもそも、それまでの歴史で朝敵となって勝利した者はいないし、事実、わしは後醍醐帝に敗れている。

とにもかくにも短期決戦をめざす鎌倉軍は、東海道から北条泰時公・時房公が率いる10万騎、東山道からは武田信光率いる5万騎、北陸道からは北条(名越)朝時率いる4万騎で、一気に京都制圧に向かう。『吾妻鏡』によれば、最終的にその数は19万騎に膨れ上がり、各地で鎌倉軍は京都軍を蹴散らしていく。

京都軍の藤原秀康、三浦胤義らは瀬田に布陣し、宇治川を最終防衛ラインに定めて奮戦するが、鎌倉軍の突破を許してしまう。そこで、最後の一戦をせんと、御所に駆けつけるのが、後鳥羽院は門を固く閉じ、彼らを追い返してしまったという。

そして後鳥羽院は幕府に使者を送り、今回の挙兵は謀臣の企てであったとして、義時追討の院宣を取り消し、反対に秀康、胤義の追討を命じる院宣を下した。

こうしたやりかたは、いわば朝廷の常套手段で、「貴人に情なし」と非難するにはあたらない。信じる方がおろかなのじゃ。

かくして、承久の乱は鎌倉軍の勝利に終わる。幕府は後鳥羽上皇隠岐に、順徳上皇をを佐渡に、土御門上皇を土佐に配流し、仲恭天皇廃帝とした。そして、安徳天皇の弟の守貞親王後高倉院として担ぎ出し、その子を後堀川天皇として即位させ、後鳥羽院の血統は、これで完全に排除されたのである。

また、後鳥羽院がもっていた広大な荘園はことごとく没収され、これを機に、鎌倉幕府の支配が畿内・西国にも及んでいくことになる。そして、これにより朝廷は幕府に政治的に従属することとなり、北条執権政治が本格的にはじまるというわけじゃ。

神皇正統記』における承久の乱の評価

ちなみに、承久の乱については、後世、北畠親房も「神皇正統記」で後鳥羽院を批判している。

次ニ王者ノ軍ト云フハ、トガアルヲ討ジテキズナキヲバホロボサズ。頼朝高官ニノボリ、守護ノ職ヲ給ル。コレミ法皇ノ勅裁也。ワタクシニヌスメリトハサダメガタシ。後室ソノ跡ヲハカラヒ、義時久ク彼ガ権ヲトリテ、人望ニソムカザリシカバ、下ニハイマダキズ有トイフベカラズ。一往ノイハレバカリニテ追討セラレンバ、上ノ御トガトヤ申ベキ。謀叛オコシタル朝敵ノ利ヲ得タルニハ比量セラレガタシ。カカレバ時ノイタラズ、天ノユルサヌコトハウタガヒナシ 

「王者の戦いは、罪ある者を討ち、罪なき者は滅ぼさないものである。頼朝が高い官位に昇り、守護の設置を認められたのは、後白河法皇の意思であり、頼朝が勝手に盗んだものではない。義時は人望に背かなかった。陪臣である義時が天下を取ったからという理由だけでこれを討伐するのは、後鳥羽院に落ち度がある。謀反を起こした朝敵が利を得たのとは比べられない。従って、幕府を倒すには機が熟しておらず、天が許さなかったことは疑いない」

そして「臣下が上を討つのは最大の非道であるとしながらも、まず真の徳政を行い、朝威を立て、義時に勝つだけの道があって、その上で義時を討つべきであった」としている。北畠親房からみても、大義後鳥羽院ではなく、義時公にあったというわけじゃ。

我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け

以下は余話として。この後、後鳥羽院は配流先の隠岐で余生を過ごしている。とくに和歌には精力的で、『遠島百首』をはじめとして700首近い和歌を残を詠んでいる。

もともと多趣味な後鳥羽院だから、島での生活もいろいろと工夫されたのだろう。それでも京都に戻りたいという思いは、つねにあったとは思うがな

ちなみに、仲恭天皇の後をついだ後堀川天皇と、その子の四条天皇は相次いで不慮の死を遂げ、けっきょく皇統は後嵯峨天皇はが受け継ぎ、後鳥羽院の血統に復している。

宮廷では、これは後鳥羽院の怨霊によるものと噂になり、鎮魂のための御廟を建立しようということになった。ただ、そこへご本人の霊が出てきて、「俺は崇徳天皇のように怨霊として祟ることはないから御廟はつくらないように」と託宣したという話がある。

はたして実際のところはどうだったんじゃろうか。

関心の威ある方はこちらもどうぞ。

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