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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

蘇我倉山田石川麻呂と山田寺…願はくは我、生生世世に、君王を怨みじ

今日は、それに関連して蘇我倉山田石川麻呂さんについて。といっても、以下はほとんどWiki先生に教わったものじゃ。なんせ、蘇我倉山田石川麻呂という人の、どこまでが苗字でどこまでが名前かすらもよくわからんレベルじゃったからのう。

(ちなみに、蘇我は「氏」、倉山田は「父親の名」、石川は「居住地」で、麻呂が「名前」なんだとか。)

山田寺跡

蘇我倉山田石川麻呂について

蘇我倉山田石川麻呂は、蘇我馬子の子である蘇我倉麻呂の子で、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟にあたる。

皇極天皇4年(645年)、中大兄皇子中臣鎌足らと組んで、蘇我入鹿の暗殺を共謀。
クーデター当日は、飛鳥板蓋宮大極殿で、三韓の使者による上表文を読み上げる際、恐怖と緊張のあまり、声が震え、冷や汗をかいていたため、入鹿に不審がられたという話は有名じゃ。
このあたり、石川麻呂さんのキャラがうかがいしれるのうw

乙巳の変により新政権がスタートすると、皇極天皇の後継は軽皇子となり、孝徳天皇として即位し、石川麻呂は右大臣に任命される。

君臣の間柄はすこぶるよく、また、石川麻呂のふたりの娘・智娘(おちのいらつめ)と姪娘(めいのいらつめ)は、ともに中大兄皇子の妃となっていることから、その未来は順風満帆であるかに思われていたんじゃが……

大化5年(649年)、異母弟の蘇我日向が、石川麻呂が謀叛を企てているという讒言があり、真偽を問う使者と朝廷軍が、石川麻呂の難波の邸宅に派遣される。
石川麻呂はひとまず大和の山田寺へ逃れ、そこで天皇に直接会って話をしたいと申し出る。

しかし、これは受け入れられず、ここに至って石川麻呂は観念する。長子の興子(こごし)らは抗戦を主張したが、石川麻呂はこの意見を退けたという。

「夫れ人の臣たる者、安ぞ君に逆ふるこどを構へむ。何ぞ父に孝ふことを失はむ。凡そこの伽藍は、元より自身の故に造れるに非ず。天皇の奉為に誓ひて作れるなり。今し我身刺に譖ぢられて、横に誅されむことを恐る。聊に願はくは、黄泉に尚し忠しきことを懐きて退らむ」 
「願はくは我、生生世世に、君王を怨みじ」

「人の臣たる者が、どうして君に逆らうことを企てたり、父を不幸にすることを考えたりするだろうか。この寺ももとより自分のためにつくったのではく、天皇のためにつくったものである。今、私は蘇我日向に讒言されて殺されようとしている。願わくば、君への忠を抱いて黄泉の世界に参りたいと思う」

「私は未来永劫、君を恨んだりはいたしません」

そう言い残して、石川麻呂は妻子らとともに自決したそうじゃ。

山田寺跡

事件はでっちあげの陰謀だった?

この事件は、中大兄皇子中臣鎌足の陰謀であったといわれている。蘇我氏を抹殺したいという執念じゃろうか。中央集権国家を建設していこうとする中大兄皇子らにとって、旧豪族の利権を守ろうとする豪族たちの支持が、石川麻呂の下に集まることを危惧してのことであったようにも思われる。

はっきりしたことはわからんが、なんといっても石川麻呂もまた、蘇我一族じゃからのう。邪魔になりそうなやつはあらかじめ排除しておく。これ、北条も同じことやっているから、よくわかるのじゃよ。

ちなみに、その後、石川麻呂の無実は明らかとなる。中大兄皇子は讒言した蘇我日向を筑紫国の筑紫宰としますが、世間はこれを左遷と評した。無実の罪で父を夫に殺された石川麻呂の娘たち、智娘と姪娘の嘆き悲しみは、いかばかりであったじゃろうか。

ちなみに、智娘には大海人皇子天武天皇)の妃となる大田皇女、後に持統天皇となる鸕野讚良皇女(うののさららひめみこ)が、姪娘には後に元明天皇となる阿閇皇女(あへのひめみこ)が生まれている。

 

山田寺跡
 

石川麻呂の死後、山田寺は建設が中断するが、天智天皇2年(663年)には塔の建設工事が再開されている。
また、天武天皇7年(678年)には「丈六仏像を鋳造」され、現在は、その頭部だけが興福寺に伝わり、国宝に指定されている。
石川麻呂の死後も山田寺の造営が続けられたのは、孫娘にあたる持統天皇の支援があったのじゃろう。

いまとなっては、だだっ広いだけで、なんにもない山田寺跡じゃが、石川麻呂という人物を知れば「訪れてよかった」という気持ちになる場所といえるじゃろう。

それにしても……政治の世界はいつの時代も非情じゃのう。