北条高時blog 闘犬乱舞。

うつつなき太守による歴ヲタの備忘録です

蒲殿・源範頼のこと〜何気ない「ひと言」が命取り!

ふつうはといえば源頼家公ということになるんじゃろうが、この地には河内源氏の流れを汲む源義朝公の六男で頼朝公の異母弟、九郎義経殿の異母兄である源範頼さんも眠っておる。

蒲殿・源範頼公の出自

源範頼さんは遠江国蒲御厨で生まれ育ったので「蒲殿」または「蒲冠者」。母は遠江国池田宿の遊女とされる。父・義朝が敗死した平治の乱では蒲殿の存在は確認されておらず、密かに養われていたところ、公家の藤原範季に養育されることとなり、以後は「範頼」と名乗ったらしい。

蒲殿がいつから頼朝公に合流したのか、これもはっきりしない。じゃが、「吾妻鏡」によれば、寿永2年(1183年)2月、常陸国志田義広が鎌倉に進軍してきた野木宮合戦に、蒲殿は援軍として出撃している。

吾妻鏡」は蒲殿について、「私の合戦を好み太だ穏便ならざるの由仰せらる」と記している。また「源平盛衰記」では凡将、無能と記されている。「平家物語」でも、義経の武勲を引き立てるためか、あまりよくは描かれていない。

そうしたこともあって、蒲殿はマイナーな存在になってしまっておる。ただ、頼朝公の代理として木曽義仲殿、さらには平家追討の軍を率いて九州で戦果をあげておるし、奥州藤原氏攻めにも参戦し、鎌倉開府に貢献している。

蒲殿の悲劇的な最期

ただ、どうにもつまらぬことから蒲殿の運命は暗転してしまう。有名な曽我兄弟の仇討ちのとき、鎌倉には頼朝公が討たれたという誤報が入る。すると蒲殿は「後にはそれがしが控えておりまする!」と政子さんを励ますのじゃが、これに頼朝公と政子さんがカチンと来たようでのう。蒲殿は謀反の疑いをかけられてしまうのじゃ。

あわてた蒲殿は頼朝公への忠誠を誓う起請文を送るが、そのとき「源範頼」と源姓を名乗ったことが、「貴様ごとき、遊女の息子が源姓を名乗るとは図々しい!」と、頼朝公の怒りの火に油を注いでしまうのじゃ。

思わぬ事態に狼狽し、嘆き悲しむ蒲殿。すると、それをみるにみかねた家人が頼朝公の寝所の床下に潜入して探りをいれにいったんじゃ。けれど、それが見つかってしまい、「暗殺を企てた」との嫌疑をかけられて、ついに蒲殿は伊豆国へと配流、そして殺されてしまったんじゃよ。

なんという頼朝公の猜疑心、貴人に情なし! 九郎殿といい蒲殿といい、源家の血は、じつは北条よりも冷たいんじゃな。ただ、頼朝公の立場になってみれば、いちばん警戒すべきは源氏の血を引く兄弟だったのかもしれん。

じっさい、曽我兄弟の仇討ちついては、相模の御家人が北条氏ばかりが厚遇されているのを不満にもち、蒲殿を担いで頼朝公と時政公を排除しようとしたという説もあるらしい。不自然なカタチでこの時期に出家した岡崎義実とか大庭景義とか、そのあたりじゃな。あるいは、北条時政公が烏帽子親となった曽我時致をつかって、頼朝公を暗殺しようとしたという見方をする者もおる。もちろん、真相はよくわからない。

くわばらくわばら……権力闘争とは恐ろしい。

範頼生存説

ちなみに蒲殿の最期には異説がある。越前へ落ちのびて生涯を終えたとか、武蔵国に逃れて隠れ住んだとか。三浦半島の「追浜」の地は、修善寺を脱出した蒲殿が追われるようにして浜にたどりついたことから、そう呼ばれるようになったともわれておる。

まあ、チンギス・ハーンになった九郎殿比べると、かなり地味ではあるが、それもまた蒲殿らしいかもしれんな。

源範頼Wikipedia)