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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

長門探題・金沢(北条)時直の降参…時直僅に五十余人に成て柳浦の浪に漂泊す

先日、最後の鎮西探題・赤橋英時についてエントリーしたので、本日は、長門探題の金沢(北条)時直についてじゃ。

長門探題とは

長門探題も鎮西探題同様、文永の役の後、異国警固を目的に、北条宗頼が長門守護に着任したのがきっかけ。長門・周防は軍事上の重要拠点。もし関門海峡を突破されると瀬戸内海を通っていっきに畿内、京へと蒙古が襲来する恐れすらあった。

そこで幕府は執権・北条時宗公の名代として、実弟の宗頼公を長門に派遣する。宗頼公は本来であれば華麗なる北条一族として、鎌倉で安穏とした生活を送れる立場じゃったが、住みなれた鎌倉を離れ、長門に赴任。九州の有力御家人・大友頼泰の娘を妻とし、この地で異国警固や所領問題の採決などにあたっていたが、弘安の役の2年前、この地で没している。

以後、長門・周防の守護には北条一門が任命されて現地に赴任してきたが、金沢(北条)時直のとき、はじめて「長門探題」という呼称が使われるようになったらしい。

金沢時直、西国に下る 

さて、その金沢時直のこと。時直は金沢実村の子で、金沢文庫の創設者としても有名な金沢実時の孫にあたる。通称は越後九郎、上野介の官途から上野殿ともいわれる。

時直は鎮西探題となった兄・実政とともに西国へ下り、これを補佐している。そして、西国での経験と人脈を期待されたのじゃろうか、大隅・長門・周防の守護に任命され、正安元年(1299)には、鎮西評定衆に補任されている。

ちょうど京都では、後醍醐天皇が倒幕計画を練り、無礼講なる怪しげな密議をこらしていた頃のことで、以後、金沢時直は赤橋英時とともに、西国での反幕府運動に対峙していくこととなる。

正慶2年(1333)隠岐に流されていた後醍醐天皇が名和長年に迎えられ、伯耆に入ると、長門探題周辺はいよいよ慌しくなる。閏2月11日には、後醍醐天皇の綸旨に応えて、土居通増、得能通綱、忽那重清、祝安親らが倒幕の兵を挙げ、伊予守護・宇都宮貞宗の府中城を攻め落とす。

時直はすぐさま反乱軍の鎮圧のため、石井浜(現・今治市)から上陸しようとするが、邀撃されてしまう。そこで3月12日、時直は態勢を立て直して再び伊予に兵を進める。星岡一帯での白兵戦は壮絶だったようじゃが、時運を味方にした反幕府軍の勢いを止めることは難しく、多数の死傷者を出して長門へ戻る。このとき、時直は反幕府軍の襲来を恐れ、探題館にいた女性たちを鎮西探題へと逃したといわれている。

そして3月29日には、石見から高津道性、吉見頼直らが長門に攻め込んできた。探題軍は美祢郡大峯でこれを迎え撃つものの、有力武将であった厚東氏が離反。周囲はいっせいに反北条へとなびき、探題軍はやむなく長府へと撤退している。

金沢時直の最期

5月、劣勢になった金沢時直は瀬戸内海へと逃れまる。『太平記』によると、京都六波羅の苦戦を聞き、瀬戸内海からその救援にかけつけようとしたとある。じゃが、六波羅はおろか鎌倉までもが陥落したことを知ると、鎮西探題とともに戦うことを決意して九州へ向かう。

そして赤間関で鎮西探題が滅亡したこと知り、時直は九州に逃がした妻子の行方が気にかかり、やむなく降伏を決意するのじゃ。

赤間が関に着て、九州の様を伺ひ聞給へば、「筑紫の探題英時も、昨日早小弐・大友が為に被亡て、九国二嶋悉公家のたすけと成ぬ。」と云ければ、一旦催促に依て、此まで属順たる兵共も、いつしか頓て心替して、己が様々に落行ける間、時直僅に五十余人に成て柳浦の浪に漂泊す。 
彼の浦に帆を下さんとすれば、敵鏃(やじり)を支て待懸たり。此嶋に纜(ともづな)を結ばんとすれば、官軍楯を双べて討んとす。残留る人々にさへ、今は心を沖津波、可立帰方もなく、可寄所もなければ、世を浮舟の橈(かじ)を絶え、思はぬ風に漂へり。跡に留めし妻子共も、如何成ぬらんと、責て其行末を聞て後、心安く討死をもせばやと被思ければ、且の命を延ん為に、郎等を一人船よりあげて、小弐・嶋津が許へ、降人に可成由をぞ伝へける。



「太平記」によると、ここで峯の僧正・春雅という人物が登場する。この僧は、後醍醐天皇の外戚にあたり、笠置の合戦で敗れた後、西国に流されてきたらしい。その際、探題であった時直に罪人だからと、数々の無礼、非礼を受け、春雅は涙を流して屈辱に耐えた。しかし、いまは立場が逆転。俊雅は涙を流し、「怨を報ずるに恩を以てす」と時直の命を助ける。時直はこれを聞いて泣き崩れた。

時直膝行頓首して、敢て不平視、遥の末座に畏て、誠に平伏したる体を見給て、僧正泪を流して被仰けるは、「去る元弘の始め、罪無くして此所に被遠流時、遠州我を以て寇とせしかば、或は過分の言の下に面を低て泪を推拭ひ、或は無礼の驕の前に手を束て恥を忍き。然に今天道謙に祐して、不測世の変化を見に、吉凶相乱れ栄枯地を易たり。夢現、昨日は身の上の哀み、今日は人の上の悲也。「怨を報ずるに恩を以てす」と云事あれば、如何にもして命許を可申助。」と被仰ければ、時直頭を地に付て、両眼に泪を浮めたり。 
不日に飛脚を以て、此由を奏聞ありければ、則勅免有て懸命の地をぞ安堵せられける。 時直無甲斐命を扶て、嘲を万人の指頭に受といへども、時を一家の再興に被待けるが、幾程もあらざるに、病の霧に被侵て、夕の露と消にけり。

その後、時直は、おめおめと生き残ったことへの嘲りをうけながらも、北条家再興をめざすが、程なくして病で没したという。なお、子の上野次郎入道は時直の死の2年後に反乱を起こすが、鎮圧され、殺されている。

鎌倉を離れ、西国で北条のために身命を賭して働いた時直に、わしは涙を禁じ得ないのである。

最後の鎮西探題・赤橋英時については、こちらを。

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