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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

越中守護・名越時有の悲話…夫婦執着の妄念を遺しけるにや

しつこいようじゃが、今日も鎌倉北条氏滅亡の余話をエントリー。越中守護の名越時有(北条時有)について、じゃよ。。
名越時有は北条氏名越流・公貞の子。祖父の名越公時は弓馬や蹴鞠にも習熟し、鞠奉行をつとめている。北陸道北条氏の勢力が強く、時有は正応3年(1290)に守護職として越中国に赴任し、この地に放生津城を築いている。

放生津城(Wikipediaより)
 

越中守護・名越時有とその妻子の最期

後醍醐天皇隠岐から脱出し、伯耆国で兵を挙げると、一旗上げてやろうという出羽・越後の宮方勢力は北陸道から上洛をめざし、越中へと攻め込んできた。。そこで名越時有は、越中に流罪となっていた後醍醐天皇の皇子・恒性皇子を暗殺し、弟の有公、甥の貞持らとともに、二塚城で宮方の軍勢を迎え撃った。

北陸はもともと北条の勢力が強い地域じゃったが、京都で足利高氏が裏切り、六波羅探題が陥落したとの報らせが広まると、討幕の炎は燎原の火のごとく広がり、北陸武士たちも次々に宮方へと寝返ってしまう。

是を見て、今まで身に代命に代らんと、義を存じ忠を致しつる郎従も、時の間に落失て、剰敵軍に加り、朝に来り暮に往て、交を結び情を深せし朋友も、忽に心変じて、却て害心を挿む。今は残留たる者とては、三族に不遁一家の輩、重恩を蒙し譜代の侍、僅に七十九人也。

残ったのはわずかに一族郎等79人。時有、有公、貞持の3人は、やむなく放生津城へ撤退。敵がくる前に妻子を沖に沈め、自害することを決意する。

遠江守(時有)の女房は、偕老の契を結て今年二十一年になれば、恩愛の懐の内に二人の男子をそだてたり。兄は九弟は七にぞ成ける。
修理亮有公が女房は、相馴て已に三年に余けるが、只ならぬ身に成て、早月比過にけり。
兵庫助貞持が女房は、此四五日前に、京より迎へたりける上臈女房にてぞ有ける。その昔紅顔翠黛の世に無類有様、風に見初し珠簾の隙もあらばと心に懸て、三年余恋慕しが、兎角方便を廻して、偸出してぞ迎へたりける。

時有の子どもはかわいい盛り、有公の奥さんは妊娠中で臨月、貞持は雅な宮廷女子との大ロマンスで新婚さんと、夫婦模様は三人三様。それぞれに別れを惜しんでいるうちに、いよいよ敵も近づいてきたため、女房子どもたちは泣く泣く奈呉の浦の沖へと漕ぎ出していく。

うらめしの追風や、しばしもやまで、行人を波路遥に吹送る。情なの引潮や、立も帰らで、漕舟を浦より外に誘らん。 
水手櫓をかいて、船を浪間に差留めたれば、一人の女房は二人の子を左右の脇に抱き、二人の女房は手に手を取組で、同身をぞ投たりける。紅の衣絳袴の暫浪に漂しは、吉野・立田の河水に、落花紅葉の散乱たる如に見へけるが、寄来る浪に紛れて、次第に沈むを見はてて後、城に残留たる人々上下七十九人、同時に腹を掻切て、兵火の底にぞ焼死ける。

入水自殺というのは軍記物の定番なんじゃろうが、いかにも平家の最期らしく涙を誘う。そして時有、有公、貞持の3人は妻子の最期を見届けた後、燃え盛る戦火の底で、腹掻っ捌いて死んでいくのじゃった。正慶4年5月17日、ワシら北条一族が自決し、鎌倉幕府が滅亡する5日前のことじゃ。

その幽魂亡霊、尚も此地に留て夫婦執着の妄念を遺しけるにや

ところで、こうした夫婦の別れ難い気持ちは一族の成仏を妨げたようで、『太平記』には不思議な後日談が紹介されている。


越後から上ってきた船頭が、この浦周辺を漕ぎ過ぎようとしたときのこと。急に海が荒れてきたので沖合いに舟を止めることにした。その後、夜更けになってようやく波も静まるが、空には秋の月、松林を吹き抜ける風の音、旅先の心細さもあり、あたりはなんとも薄み気味悪い感じがしておった。

するととつぜん、沖合いから女の泣き悲しむかのような声がする。そして波打ち際からは、それに応えるかのような男の声が聞こえてくる。船頭が渚に漕ぎ寄せると、姿、卑しからぬ男が3人出てきて、「あの沖合いまで乗せてもらいたい」と言って、舟に乗り込んできた。船頭は、女の声がする沖の方へと、3人の男を連れて行った。

舟人是を乗て澳津塩合に舟を差留めたれば、此三人の男舟より下て、漫々たる浪の上にぞ立たりける。暫あれば、年十六七二十許なる女房の、色々の衣に赤き袴踏くくみたるが、三人浪の底より浮び出て、其事となく泣しほれたる様也。
男よに眤しげなる気色にて、相互に寄近付んとする処に、猛火俄に燃出て、炎男女の中を隔ければ、三人の女房は、いもせの山の中々に、思焦れたる体にて、波の底に沈ぬ。男は又泣々浪の上を游帰て、二塚の方へぞ歩み行ける。
余の不思議さに舟人此男の袖を引へて、「去にても誰人にて御渡候やらん。」と問たりければ、男答云、「我等は名越遠江守・同修理亮・並兵庫助。」と各名乗て、かき消様に失にけり。

太平記』は、「其幽魂亡霊、尚も此地に留て夫婦執着の妄念を遺しけるにや」「親り斯る事の、うつつに見へたりける亡念の程こそ罪深けれ」と記しているが、とつぜんの猛火が邪魔をして、妻たちは浪の底に沈み、時有、有公、貞持の3人はすごすごと陸に引き返していく。

こんなことを延々繰り返しているとすれば、過日にエントリーした淡河右京亮時治の悲話と同様、人間の業とはいえ、なんとも悲しいではないか。  

なお、名越時有の息子・名越時兼は、こののち、北条時行による中先代の乱に呼応して北陸で隆起しているので、この悲劇からは逃れたということなんじゃろうか。中先代の乱については、またいずれ、書こうと思うが、今日のところはこれにておしまい。