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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

前代未聞の恥辱也…金剛山に楠木正成を攻めていた北条氏お歴々の最期

ここのところ九州、長門、北陸での北条一族の最期をエンントリーしてきたが、河内国金剛山の千早城を攻めていた軍勢をうっかりと忘れておった。阿蘇治時、長崎高貞(長崎高資の弟)、大仏家時、高直、貞宗の三兄弟、二階堂道蘊ら、お歴々が率いる精鋭たちのことじゃ。金剛山を攻めた北条軍は、楠木正成のゲリラ戦法に翻弄され、90日もの長きにわたり、この地に釘付けにされている。

金剛山遠景(Wikipediaより)

 

それにしても……後醍醐天皇隠岐を脱出し、赤松円心、千種忠顕らが京都に迫り、援軍に来たはずの足利高氏が裏切り、六波羅探題が陥落するという動乱の中、あれだけの大軍を擁しながら金剛山無為にはりついていただけというのは、あまりにも残念でならぬ。

せめて抑えの兵を残して、京都に攻め込んできた赤松、千種、足利の背後を衝くとか、やりようはあったと思うんじゃが……と、そんなことを今さら嘆いても、あとの祭りかのう。

楠木正成はもちろん手強かったんじゃろう。じゃが、寄せ手がぼんくらだったことは否定できないように思うぞ。そもそも大将の阿蘇治時はワシの猶子とはいえ、16歳の若造じゃ。補佐する長崎高貞も、これまた大したことなさそうじゃし、大仏高直や二階堂道蘊は、そもそも、悪党の隆起がこれほどの大事に至るとは思ってもいなかったんじゃろう。まあ、ワシもそうなんじゃがな。要するになめていた、たるんでいたんじゃよ。

六波羅陥落の報せに驚愕した北条軍は、ともかく金剛山の囲みを解き、南都興福寺に立て籠もって抗戦することにしたらしい。しかし、劣勢の北条に味方するものなどなく、兵たちは四方八方に逃げ散ってしまう。いっぽう宮方は、畿内の北条残党を掃討すべく、京都から中院定平を、河内からは楠木正成を差し向けてくる。こうなると畿内日和見だった者たちもいっせいに立ち上がる。そして、鎌倉で北条高時一族が自決したという悲報も伝わってきたことじゃろう。

「いつしか小水の魚の沫(あわ)に吻(いきづ)く体に成て」「百騎二百騎、五騎十騎、我先にと降参しける間、今平氏の一族の輩、譜代重恩の族の外は、一人も残留る者も無りけり」という有様の北条軍はもはや孤立無援。かくして北条のお歴々は般若寺で頭を丸め、ここに鎌倉幕府は宮方に全面降伏に至るわけじゃ。

中院定平は、阿曾治時、大仏高直、長崎高貞らを捕虜として縛り上げ、荷物運搬用の馬の鞍壷にくくり付け、白昼堂々、京都に凱旋してくる。命を惜しんで自ら墨染めの衣をまとい、罪人として醜態をさらす北条一族を、『太平記』は「前代未聞の恥」と断じている。

敵に被議たるにも非ず、又自害に隙なきにも非ず、勢ひ未だ尽きぬ先に自ら黒衣の身と成て、遁ぬ命を捨かねて、縲紲面縛(るゐせつめんばく)の有様、前代未聞の恥辱也。

その後、阿曾治時らは、しばらく京都に囚われの身となり、鎌倉の消息などを耳にしては、やりきれない日々を過ごしていたことじゃろう。そして正慶二年(1334年)7月9日、北条のお歴々は京都阿弥陀寺で処刑されてしまうのじゃ。

ただ、二階堂道蘊は「朝敵の最一」と宮方でも名が通っていたこともあり、許されて一時は建武政権に参加する。じゃが、後に西園寺公宗による北条氏再興の陰謀に加担したとの嫌疑で、六条河原で処刑されている。

ということで、南無南無。