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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

聖福寺趾碑〜北条時宗公の兄上・時輔殿がなんとも不憫でならぬ件

かつて稲村ガ崎の奥には聖福寺というお寺があった。あの最明寺入道・北条時頼公が建立したお寺じゃ。北条時頼公といえば、歴代執権のなかでも善政をしいた名君として名高いが、ワシの中では、大河ドラマ「北条時宗」で、渡辺謙さん演じた時頼公のこの台詞があまりにも強烈で……

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時輔を殺せ〜

ひぃいいいいいいー!

これはほんと、強烈じゃった。北条時輔殿は、時頼公と側室の讃岐局の間に生まれた子で、時宗公の兄君にあたる。しかし、時頼公は早くから兄弟の序列をつけていて、得宗家を継ぐのは正室の子である時宗公、次いで弟の宗政殿とし、庶長子の時輔殿には家臣として時宗公を支えるよう命じたという。じっさい、時輔殿の「輔」の字は、時宗公を「輔ける」という意味で、さいしょの名の時利から改名させられたものじゃしな。

聖福寺は、時頼公のふたりのお子の無病息災を祈願して建長6年(1254)に建立されたものじゃ。「吾妻鏡」にはこうある。

聖福寺鎮守諸神の神殿上棟。所謂、神験・武内・平野・稲荷・住吉・鹿嶋・諏訪・伊豆・箱根・三嶋・富士・夷社等と。これ惣て関東長久、別して相州両賢息の息災延命の為なり。仍って彼の兄弟両人の名字を以て、寺号に模せらると。去る十二日事始め有りと。

「聖福寺」という寺号は「相州両賢息」「彼の兄弟両人の名字」をもって名付けられたとあるが、この兄弟とは時宗公(正(聖)寿丸)と宗政公(福寿丸)のこと。つまり時輔殿(宝寿丸)は、はじめから除外されとるというわけじゃ。

なんとも不憫な時輔殿ではあるが、正室の子が嫡男として別格扱いになるのは得宗家にかぎったことではなく、武家社会では一般的なことじゃ。時頼公は時宗公を正嫡として第一に立て、時輔殿との差をみせつけることを執拗なまでに行っておる。この「聖福寺」という寺号も、そうした方針のひとつのあらわれというわけじゃな。時頼公は、将来、時輔殿が自分の意思とは関係なく、反得宗勢力に担がれることを危惧しており、これはこれでいたしかたないことだったんじゃよ。とはいえ、けっきょく時輔殿は六波羅探題南方に就任したあと、二月騒動で時宗公に誅殺されることになるのじゃが、そのことはまた、いずれ書きたいと思う。

 

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聖福寺趾の石碑は住宅街の中に建っていて、往時の様子を伺わせるものはなにもない。なんでも、この石碑はもともとここにあったのではないそうじゃ。元弘3年(1333)の鎌倉攻めでは、新田義貞が聖福寺に陣を構えているが、聖福寺がどこにあったのか、また、いつ廃寺となったかもわからないそうじゃ。「吾妻鏡」には大庭(いまの藤沢市)にあったとの記載もあるし。
また、戦前の鎌倉青年会による碑文には、聖寿丸を時輔殿とし、福寿丸を時宗公とし、ふたりの名から寺号をとったと書いてあるし、建長6年の西暦もまちがっておるなど、これはいかがなものかと思うが、まあ、そんなことはだれも気にしてないというわけか。