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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

孝明天皇と崇徳天皇と幕末維新

さて、ここのところ怨霊の話ばかり書いているせいか、なんとなく体調がすぐれないので、今日で一区切りしたいと思う。で、今日は孝明天皇についてじゃよ。

孝明天皇

孝明天皇

孝明天皇は佐幕ゆえに毒殺された?

孝明天皇は弘化3年(1846年)、仁孝天皇の崩御にともない践祚された。当時の将軍は徳川家慶で、その前年には天保の改革が失敗、水野忠邦が罷免されており、江戸幕府の政治が行き詰まりはじめていた時期にあたる。

ペリーが来航すると、孝明天皇は神州を夷狄に汚されることをおそれ攘夷を譲らず、開国やむなしとする幕府と意見の相違をみせる。じゃが、妹の和宮を将軍・徳川家茂に降嫁させて公武合体をすすめるなど、そのお考えはあくまでも佐幕であった。とくに京都守護職の松平容保には絶大な信頼を寄せていた。いっぽう、尊攘派の公家をそそのかし、勝手なことをする長州藩には、終生、嫌悪感をもっておられたらしい。

こうした孝明天皇の存在は、武力討幕を目論む薩摩長州や岩倉具視らには、まさに目の上のたんこぶであった。じゃが、なんと好都合なことに、孝明天皇はとつじょとして天然痘にかかり、36歳の若さで崩御してしまうのじゃ。このタイミングのよさに、当時から毒殺説も噂されておるが、いずれにせよ、これにより幼少の睦仁親王が即位し、それまで追放されていた親長州派の公卿が、どんどん復権してくることになり、幕末史は大きく動き出すというわけじゃ。 

まさに命懸けの孝明天皇による崇徳天皇の鎮魂

怨霊となった崇徳天皇

怨霊となった崇徳天皇

さて、今日は幕末維新の話ではなくて、怨霊とその鎮魂の話が本題なんじゃ。じつは、孝明天皇のご在位中の万延2年(1861)は干支が「辛酉」にあたり、古来から60年に一度、王朝が交代する革命が起こる年とされていた(辛酉革命)。そしてその4年後の文久4年(1864)は「甲子」で、この年は国家の体制が変わり、変乱の多い年と考えられていた(甲子革令)。

しかも、この間には、なんと、あの日本最強の怨霊となった崇徳天皇七百年式年祭の年にあたるのじゃ。これまでも100年ごとに訪れる崇徳天皇の式年祭の前後数年には国家的な動乱に見舞われてきた。そして迎えた700年目、日本は異人に開国を迫られ、桜田門外の変で大老暗殺、尊攘派による血なまぐさい事件も多発しており、世相はいよいよ混迷を極めていた。これを深く憂慮された孝明天皇は、中川宮朝彦親王と相談し、年号を「元治」に改元した。そして、崇徳天皇の霊を讃岐国白峯から京都にお戻しして、これを慰めようとしたんじゃ。

かくして慶応2年(1866)より、御社殿の造営がはじめられた。じゃが、それからわずが15日後の12月25日、壮健だった孝明天皇がとつぜん崩御してしまったのじゃよ。竹田恒泰さんは、その著書『怨霊となった天皇』で、「元治」の元号が「保元」「平治」を想起させたのがまずかったとしつつも、「孝明天皇は朝廷の存続と御自身の命を霊的に御引き替えになったのかも知れない」と述べておられる。うん、ワシもそんな気がするぞ。

白峯神宮(京都市)

白峯神宮(京都市)

崇徳天皇の祟りは解けたのか?

孝明天皇が崩御した後の慶応3年(1868)1月9日、明治天皇は元服前の14歳で践祚。そして崇徳天皇の命日である8月26日、明治天皇は讃岐国白峯に勅使を遣わす。霊前で宣命を読み上げさせ、崇徳天皇の御霊を創建なった京都の白峯神宮にお戻りいただくこととし、ようやく8月27日、京都御所で即位の礼を執り行った。

「日本国の大魔縁となり、皇を取て民となし、民を皇となさん」……これにより崇徳院の怨いがとけたのか、保元・平治の乱で武家に政権がうつってから700年を経て、ようやく朝廷は王政復古を果たしたというわけじゃ。

さらに明治天皇は、これまで諡号が贈られていなかった三人の天皇に「弘文天皇」「仲恭天皇」「淳仁天皇」の諡号を贈る。かくして明治日本は怨霊たちと和解し、近代国家として歩みだしというわけじゃよ。

なお、崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年(1964)昭和天皇も、香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わし、式年祭を執り行わせている。1964年といえば東京オリンピックがあった年じゃな。そのときは当日、近くの小学校でボヤ騒ぎがあっただけで、日本は以後、高度経済成長へと突き進んでいく。崇徳天皇の怨霊はとりあえずお鎮まりいただいたということでよいのじゃろうか。

つぎの九百式年祭も、無事に迎えることができることを祈っておるよ。

参考文献。お薦めの一冊はこちらじゃ。