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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

そもそも「得宗」とは?

北条義時公からわし・高時までの北条氏嫡流は「得宗」とよばれているが、この「得宗」とはそもそもなんなのか。どっから出てきた言葉なのか。わしも今まで、そういうことは気にせず使ってきたんじゃが、今日はそのお話。

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得宗? 徳宗? 徳崇? 

まず、「得宗」について、Wiki先生を確認しておこう。

得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。徳崇、徳宗とも(読みは同じ)。幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。「得宗」とは2代義時に関係する言葉で、研究者によって義時の別称、戒名、追号など意見が異なる。近年では「徳崇」の当て字・略字で、禅宗に帰依した5代時頼が、浄土宗系の宗派を信仰していた義時に贈った禅宗系の追号の可能性が指摘されている。義時流、得宗家という呼び方もある。史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。

「得宗」が行政用語だとは思わんかったw

それはともかく、むかし読んだ本には「得宗」は北条義時公の法名と書かれていた。じゃが義時公の法名は「観海」であり「得宗」ではない。

ちなみにわし北条高時が祀られている宝戒寺には「徳祟大権現」と呼ばれる祠がある。じゃからわしは、正しくは「徳崇」で、それが「徳宗」「得宗」と書かれるようになったんじゃろうと思うておった。じゃあ「徳祟って何なんだよ」と聞かれたら……「いや、義時公の嫡流でむにゃむにゃむにゃ」とお茶を濁すしかないんじゃがwww

そこで、細川重男さんの『北条氏と鎌倉幕府』(講談社)。この本に「得宗」について興味深い説明が載っていた。 細川さんは「得宗」は「徳崇」の当て字、略字化で、5代執権時頼公が義時公に贈った「追号」ではないか、と推定しておられる。

「徳崇」は北条義時の追号だった?

細川重男さんは、「徳崇」であれば時頼公以後の歴代得宗の法名と結びつくと指摘している。事実、時頼公以後の得宗家の法名をならべてみると……

・時頼=道崇
・時宗=道杲
・貞時=崇暁、後に崇演
・高時=崇鑑

ちなみに時宗公の連署であった北条政村殿は「覚崇」、わしの連署の金沢貞顕は「崇顕」じゃ。うん、みんな「崇」の字がついておる。あの日本最強の怨霊である崇徳天皇の「崇」というところが、また深イイ話ではないか。

ところで、「崇」の字を法名にもつ最初の得宗は時頼公じゃが、じつは時頼公は本来、家督を継ぐべき立場ではなかったんじゃ。4代執権で兄の経時公が重病にかかり、時頼公は急遽、20歳で執権に就き、家督を継いだ。じゃが、その家督継承は評定衆の支持を得られず、周囲は必ずしも納得してなかったらしい。とくに同じ北条一門の名越光時はあからさまに反抗の態度を示し、「我は義時が孫なり。時頼は義時が彦(曾孫)なり」と言い放った(「保暦間記」)。俺の方が義時公の血が濃いぞ、というわけじゃ。

名越流は義時公の正室腹の次弟・北条朝時が祖であり、北条氏嫡流への対抗心が強い。そこで光時は、前将軍の藤原頼経公らとともに時頼公打倒を企てるが失敗する。これが世に言う宮騒動じゃ。

このように時頼公の家督継承者としての正当性は必ずしも盤石ではなかった。それを自覚していた時頼公は、一族の長老である北条重時の娘を嫁にし、地位の強化と安定を図っている。

さらに時頼公は、義時公に自分が帰依した禅宗系の追号「徳崇」を贈って義時公を顕彰する。そして、自らも出家後は「道崇」を法名に選び、自分が義時公の正当な継承者であることをアピールして権威の強化につとめた。以後、時頼公の子や孫は出家後の法名で「崇」を継承していく。これが北条氏嫡流を「徳崇」「徳宗」「得宗」と呼ぶようになった経緯というわけじゃ。

ちなみに時宗公の法名は「道杲」で「崇」の字がついてない。じゃが、これは時宗公が急な病で倒れ、出家した当日に没したからではないか。あるいは「崇」という字への敬意が、この頃はまだ十分に浸透していなかったからではないか。そう細川さんは推測している。わし、時宗公に「崇●」と追号しておけばよかったかもしれぬな。

北条義時は武内宿禰の生まれ変わり?

この細川重男さんの『北条氏と鎌倉幕府』には、ほかにもさまざまな興味深い話が紹介されておる。

たとえば「古今著聞集」に記されている、北条義時公が武内宿禰の生まれ変わりであるという伝説についてじゃ。

ある人が(どこかの)八幡神社に参籠した夜、夢の中に白髪の老人が出てきた。すると八幡神がその老人に「これから世の中は乱れる。しばらく時政の子になって世を治めよ」と命じた。これにより、夢から覚めたこの人は、義時公が武内宿禰の生まれ変わりであることを知ったというお話じゃよ。

現代の感覚からすれば何を戯けたことを、と思うかもしれない。じゃが時代は中世だからな。しかも、この話は「今昔物語」「宇治拾遺集」と並ぶ日本三大説話集とされる「古今著聞集」にも記載されておるわけじゃから、少なくとも当時、人口に膾炙していたということになる。

また、平政連が、酒浸りで世捨て人になってしまったわが父・北条貞時公を戒めるために奏上した「平政連諫草」には、義時公が武内宿禰、泰時公が救世観音、時頼公が地蔵菩薩から転生した人物であると記されておる。そういえば、わしも母上からそのように懇々と教えられた気がするぞ。

ということで、「徳祟(得宗)」という呼称も、義時公武内宿禰再誕伝説も、北条一族の内訌に終止符を打ち、得宗専制を確立していくうえで、時頼公や得宗被官のテクノクラートたちが工夫創作したということで、ほぼ間違いないじゃろう。

じゃが、こうしたブランディング戦略の努力を、わしは闘犬と田楽にうつつをぬかし、台無しにしてしまった。それはたいへん申し訳なく思う次第である。というより、後醍醐天皇とその取り巻きが、わしにそういうレッテルを貼るプロパガンダを上手にやったということなんじゃが……

閑話休題、細川重男さんのこの著書はじつにわかりやすく、しかもいろんな意味で面白い。鎌倉クラスタ、北条好きにとつてはうってつけの必読書じゃ。わしからも一読を強くお薦めするぞ。

北条氏と鎌倉幕府 (講談社選書メチエ)

北条氏と鎌倉幕府 (講談社選書メチエ)