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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

大船の常楽寺まで、北条泰時公のお墓詣りに行ってきた件

鎌倉は大船にある常楽寺に立ち寄り、北条泰時公のお墓に手を合わせてきた。ちなみに、常楽寺の裏山には、あの大姫さまとの悲恋で有名な、木曽義仲の嫡男・清水冠者義高殿のお墓もあるが、それは次回に書かせてもらうとして、本日は賢君・北条泰時公について。

常楽寺

常楽寺

「常楽は建長の根本なり」

常楽寺は、嘉禎3年(1237)の創建で開基は3代執権北条泰時、開山は退耕行勇である。3代執権・北条泰時公が妻(矢部禅尼、三浦義村の娘、後に離縁)の母の追善供養のために建立した「粟船御堂」ははじまりで、寺名は泰時の法名「常楽寺殿」からとられたものといわれておる。

建長年間、北条時頼公に招かれた蘭渓道隆は、はじめが常楽寺の住持となり、その後に建長寺が創建されたことから、「常楽は建長の根本なり」と呼ばれてきた知る人ぞ知る寺院じゃ。現在は山門、仏殿、文殊堂が現存しておる。

常楽寺

北条泰時公のお墓は仏殿の裏側。建長寺13世の大応国師(南浦紹明)、中興の開基とされる龍淵和尚とならんで、いちばん右側に建っているのが泰時公のものだ。

北条泰時公は、陰湿で暗い印象の鎌倉北条氏の中では、文武両道・品行方正、誠実で思いやり深い人柄のイメージがある。じっさい、「吾妻鏡」にはさまざまな美談が残されてている。

あの北畠親房も「神皇正統記」で、泰時公には惜しみない賞賛を記している。

大方泰時心ただしく政すなほにして、人をはぐくみ物におごらず、公家の御ことをおもくし、本所のわづらひをとどめしかば、風の前に塵なくして、天の下すなはちしずまりき。かくて年代をかさねしこと、ひとへに泰時が力とぞ申伝ぬる。陪臣として久しく権をとることは和漢両朝に先例無し。其主たりし頼朝すら二世をばすぎず。泰時いかなる果報にか、はからざる家業をはじめて兵馬の権をとれりし、ためしまれなることにや。

わが北条が栄えたのは泰時公の「余薫」によるものだという。それを食いつぶしてしまったのが暗君のわし、高時だということなんじゃが……ともかくも、その遺徳に感謝し、そっと手を合わせる。

北条泰時公の墓所

北条泰時公の墓所

北条泰時公の事績

北条泰時公は北条義時公の庶長子。承久の乱では北条時房公とともに京都へ攻めのぼり、その後は六波羅探題北方として戦後処理にあたっている。

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義時公が亡くなると、泰時公は北条政子さまの強い推しで庶子ながら3代執権に就任する。そのとき、泰時公は義時公の遺領の多くを弟と妹に与え、自分は僅かしかとらなかったという。

政子さまや大江広元が没すると、泰時公は、実朝暗殺後に鎌倉殿として京から迎えていた三寅を元服させ、藤原頼経とし征夷大将軍に就任させる。そして「連署」「評定衆」を設置し、鎌倉幕府を合議制による集団指導制へと移行させていく。頼朝公や尼将軍のような強力なリーダーが幕府を率いていくというスタイルは、もはや無理じゃったからな。

さらに、日本初の武家の法律「御成敗式目」を制定した。頼朝公以来の先例や武家社会の道理を基準に、御家人の権利義務や所領相続の規程を定め、幕府の統治機構を着々と固めていった。これまで公家が定めてきた法律は難解でわかりにくいものが多かったが、「御成敗式目」は学問のない武士でもわかりやすい文体で表現するなどの配慮がなされた。

承久の乱の後、幕府の力が西国にまで及ぶようになり、地頭(御家人)と荘園領主(公家や寺社など)との揉めごとが増えておる中、式目の制定意義は大きく、その規程は以後の室町幕府、戦国武将の家法にも踏襲される優れものだったのじゃ。

また、このとき泰時公は、自らの懐刀として、御内人の尾藤景綱を重用し、「家令」に任命して北条嫡流家の家政一切を委ねた。ここには北条嫡流家が幕府の中心として今後も政務を担っていくための体制整備という理由も読み取れるが、「家令」は後の「内管領」であり、ここに得宗専制・御内人政治の萌芽があるというわけじゃ。

晩年の北条泰時公

さて、このように、その徳政で人望を集めた泰時公であったが、プライベートでは不幸が続いた。

16歳の次男・時実が家臣に殺害されると、その3年後には嫡男・時氏公が28歳で病死。三浦泰村に嫁いだ娘が出産した孫も早世し、娘自身も産後の肥立ちが悪く死没。泰時公のもとには、時氏の子の経時公ろ時頼公の兄弟だけが残され、泰時公はこの幼い孫の成長を心待ちにしていたという。

ちょうどこの頃、四条天皇の突然の事故死により、京都では皇位継承問題が起こり、順徳天皇の皇子・忠成王が擁立されようとしていた。しかし泰時公は、順徳天皇は承久の乱の首謀者で、いまなお 配流先の佐渡で生存していることから、これに断固反対を唱え、強引に介入して後嵯峨天皇を即位させる。

新天皇の叔父はである泰時公の妹・竹殿が嫁いだ土御門定通であり、これ以後、泰時公は朝廷内部にも実力を及ぼすようになるが、泰時公の心労はかなりのものであったようじゃ。

仁治3年(1242)6月15日、泰時公は日頃の激務で体調をくずしがちになっていたところ、赤痢にかかり病没。こうした一連の不幸は、後鳥羽上皇と順徳天皇の怨霊による祟りと巷では噂されたらしいが、まあ、これは忠成王を擁立しようとして失敗した公家どもの逆恨みから出たシロモノとして無視すればよかろう。

もっと北条泰時公の事績は世に知られるべき! 

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ちなみに、大河ドラマ「草燃える」では中島久之さんが泰時公を演じておられたのう。たしか、マツケン義時公と恋仲になった茜(松坂慶子)が頼朝公に手篭めにされて生まれた子が泰時公という設定になっていたように記憶しておる。泰時公が頼朝公の御落胤であるというのは、ご生母がはっきりしないゆえの眉唾説じゃが、それはそれ、中島久之さんは誠実でまっすぐな泰時公を見事に演じておられたぞ。

閑話休題、源頼朝公、北条義時公・政子さまといった強力な指導者と、大江広元ら鎌倉創成期のテクノクラートが没していく中、幕府政治を安定化させた泰時公の手腕は、もっともっと世に広まってもよいと思うが、どうじゃろうか。

ということで、NHKさん、ぜひ大河ドラマ化をご検討くだされ。