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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

鎌倉の法華寺跡〜源頼朝公をはじめ鎌倉幕府創始者たちの墳墓堂

花は桜木、人は武士。

鎌倉の桜もほぼ終わり。散りゆく桜木を眺めては、もののふの夢や生き方の儚さを感じつつ、法華堂跡にある源頼朝公の墓所に手を合わせてきたので、そのときのことを。

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源頼朝北条義時の法華堂跡

法華堂は鎌倉幕府創始者たちの墳墓堂。建久10年(1199)に頼朝公が没すると、その慰霊のために建立されたのがはじまりじゃ。「吾妻鏡」にはこうある。

正月十三日 庚子 晴、夜に入り雪下る。殆ど尺に盈つ。椀飯、土肥の彌太郎沙汰なり。故幕下将軍周関の御忌景を迎え、彼の法華堂に於いて仏事を修せらる。北條殿以下諸大名群集し市を成す。仏は絵像の釈迦三尊一鋪・阿字一鋪(御台所御除髪を以て、これを縫い奉らる)。経は金字の法華経六部・摺写の五部大乗経。導師は葉上房律師栄西、請僧十二口。

その後、元仁元年(1224)年6月13日、2代執権の北条義時公が亡くなると、法華堂は東側に拡張されている。

六月十八日 甲申 霽  戌の刻前の奥州禅門(義時公)葬送す。故右大将家法華堂東の山上を以て墳墓と為す。葬礼の事、親職に仰せらるるの処辞し申す。

(元仁2年)八月八日 壬寅 小雨下る 大蔵卿僧都良信勝長寿院別当職に補す。今日故奥州禅室(義時公)の墳墓堂(新法花堂と号す)供養なり。導師は走湯山の浄蓮房(加藤左衛門の尉實長の斎なり)。 

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この平場が義時公の時代に拡張された法華堂跡。発掘調査により、ここに8.4m四方の建物の遺構が出てきており、「吾妻鏡」の記述が裏付けられたというわけじゃ。義時公はこの平場のどこかに眠っている……ということで、心を込めて合掌。

源頼朝大江広元の墓

さて、先ほどの石段をのぼっていくと、五層の石塔が正面にみえてくる。これが源頼朝公の墓所じゃ。思わず背筋がシャンと伸び、やはり自然に手を合わせる。

もっとも、この墓所は江戸時代に島津重豪が整備したもので、鎌倉時代当時のものではない。しかも、4年前には不届者がこの石塔を破壊するという暴挙が起きておる。犯行の動機はよくわからんが、平家の落人とか九郎義経殿主従の末裔だったのかもしれぬな。

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頼朝公の墓の東のすぐ裏手の山中には、文官として鎌倉幕府を支えた大江広元墓所もある。大江広元についての紹介はもはや不要じゃろう。守護・地頭の設置を献策するなど、幕府の統治機構の整備は、大江広元殿なくしてはできなかった。しかも文官でありながら、承久の乱の折には義時公に徹底抗戦の決断を促し、泰時公に即時出兵を説いたのも大江広元じゃったというから、なかなか骨太な人物だったようじゃ。もっとも、この廟所も後世、長州毛利氏が建てたもので、じっさいのお墓は十二所の山中にあるということらしいがな。

大江広元殿の墓の左には長州毛利氏の祖・毛利季光の墓が、右には薩摩島津氏の祖・島津忠久の墓がある。毛利と薩摩の藩祖の墓が並んでいるのは、なかなかおもしろいのう。

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島津忠久は頼朝公の落胤

島津忠久源頼朝公の落胤だという噂がある。母親は頼朝公の乳母・比企尼の長女の丹後内侍。一般には、丹後内侍は京の二条院に女房として仕えた「無双の歌人」であったが、惟宗広言と通じて島津忠久を生み、のちに鎌倉へ下って安達盛長に嫁いだとされている。

じゃが、じつは頼朝公は丹後内侍と密かに通じを、彼女を孕ませてしまったものの、妻の政子さんの嫉妬が怖くて、藤原摂関家筆頭の近衛基通に後事を託したというんじゃな。あるいは丹後内侍が政子さんから逃れては西国へ逃げ、苦難の末に摂津の住吉大社で出産。ここを訪れた近衛基通が不憫に思って、赤子を惟宗広言に引き取らせ、この赤子が島津忠久という伝承もある。わしは見たわけじゃないが、島津家の系図にも、「頼朝将軍の落胤なり。母は比企判官能員が妹、丹後局と称す」という記述があるらしい。この話は、すでに歴史家の間では単なるガセとして決着がついているが、江戸時代にはかなりの人が信じていたようじゃし、島津家もそれをよいことに、「鎌倉以来の名家」に箔をつけていたふしもある。頼朝公の墓所を整備したり、近くに忠久の墓を建てたりというのには、そんな背景もあったんじゃろうな。

それはともかく、頼朝公が忠久にたいそう目をかけたのは事実。忠久もまた、奥州藤原攻めで武功をあげ、薩摩島津荘に領地をもらったというわけじゃな。もっとも、忠久は比企能員の乱で、あやうく領地を召し上げられそうになったりもしていて、もし、そうなっておれば日本の歴史も大きく変わっていたかもしれないわけで、なかなか興味をそそるではないか。

f:id:takatoki_hojo:20160410195822j:plainもうひとり、この地に眠っている大江広元の四男の毛利季光。季光は宝治合戦で三浦一族とともに北条にたてつき、この地で自刃して果てた。はじめ季光は北条に味方しようとしていたが、三浦義村の娘である妻から説得され、やむなく三浦についたといわれている。やさしい男じゃったのか、たんなる恐妻家じゃったのか。そのあたりはわしにもわからん。いずれにせよ、法華堂跡にくると、北条家の権力奪取のあざやかさと恐ろしさを、あらためて感じるのう。そして、わずか3代で嫁の実家に権力を奪い取られてしまった頼朝公はどう思っているのか、なんてこともな。

そんなことを考えてしまうのは、やはり散りゆく桜のせいじゃな。長くなってきたので、今日はこの辺で。宝治合戦については、またいずれ。

とりあえず、三浦一族の御霊にも合掌。