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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

蝦夷大乱…津軽安藤氏の乱のこと

昨日、得意先の安藤さんという人が青森出身だったので、津軽の安藤氏(安東氏)と関係があるのか聞いてみたところ、まったく関係なかったw じゃが、話としては大いに盛り上がったんで、今日は津軽安藤氏についてじゃよ。

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安藤氏は陸奥出羽国北部に勢力を張った氏族。始祖は安倍貞任の第2子の高星丸としているが定かではない。「吾妻鏡」には安藤氏が源頼朝公の奥州藤原攻めのとき、先導役をつとめたという記述もある。

津軽半島北西部の日本海沿岸には十三湖があるが、当時からこの一帯は天然の良港として十三湊がおかれ、アイヌと和人、さらには朝鮮半島、中国との北方交易の拠点として栄えていた。もちろん、そんなおいしい場所を北条氏が見逃すわけはない。北条氏は安藤氏を得宗被官(御内人)とし、代々蝦夷管領蝦夷沙汰代官)に任じることで、軍事・経済両面でその支配下に置くことに成功する。

しかし文永5年(1268)、津軽蝦夷が蜂起し、蝦夷代官の安藤五郎が殺害される事件がおこった。原因については、苛烈な収奪にアイヌが怒ったとか、日持という僧侶がアイヌに仏教を強制したなどといわれているが、はっきりしたことはわからない。ちなみに日持は法華経の僧侶で、彼が北海道に渡って来た時、見たこともない魚が大量にとれ、それが「ホッケ」のはじまりという豆話もあるが、まあ、それはさておき……

文永5年といえば、北条時宗が執権に就任した年である。九州太宰府には蒙古の国書が届いている。日蓮が予言した国難が間近に迫っていた時期じゃったが、このとき、元のフビライアイヌ征討のための兵を樺太に派遣していた。樺太ではテン皮やアザラシ皮、オットセイの捕獲の利権をめぐって、ニブフはアイヌともめていた。そこでニブフはフビライアイヌ討伐を要請したというわけじゃな。その結果、アイヌ樺太から排除されてしまう。これは北方交易を差配する安藤氏にとっても痛かったかもしれぬ。その後、アイヌ津軽で反乱をおこし、安藤五郎は首をとられてしまうのじゃ。フビライアイヌ征討が、少なからずこの事件に影響していたようにわしは思っておるのじゃが、どうかのう。

幸い、この後、2度の蒙古襲来を撃退した鎌倉幕府であったが、元応2年(1320)には再び出羽で蝦夷が蜂起する。そこに代官の安藤季長と従姉妹の季久(宗季)の家督争いが絡んで、津軽は大混乱に陥ってしまう。これが安藤氏の乱じゃ。

当初、得宗家では蝦夷代官職を季長から季久に替えることで事態の収集をはかった。じゃが、安藤季長は承服しない。じつはこのとき、内管領長崎高資が季長季久の両者から賄賂をもらっていたというのじゃ。こちら、元享2年の「保暦間記」。

奥州に安藤五郎三郎(季長)、同又太郎(季久)と云者あり。彼等が先祖安藤五郎と云者、東夷の堅めに義時が代官として津軽に置たりけるが末なり。この両人相論する事あり。高資(長崎入道覺眞子)数々賄賂を両方より取りて、両方へ下知をなす。彼等が方人の夷等合戦す。これに依って関東より打手を度々下す。多くの軍勢亡ひけれども、年を重て事行ぬ。

にわかには信じられんことじゃが……

「高資、そちはどういうつもりじゃ!」

「いや、あれは向こうが勝手に送りつけてのでございます」

ぐぬぬ……ともかくも得宗家としては工藤祐貞を派遣して季長を捕縛、鎌倉に連行する。じゃが、季長の郎党は怒り心頭、反乱は治まる気配もない。わしも金沢称名寺の仏に願文を奉納し、蝦夷の静謐を祈ったんじゃが、騒ぎは大きくなるばかり。けっきょく幕府は宇都宮高貞、小田高知らの軍勢を派遣して、なんとか和談を成立させたんじゃが、御内人の内紛を御家人に尻拭いしてもらうようでは、北条と得宗家の権威は失墜、幕府の弱体ぶりを晒してしまったわけじゃ。こうした幕府の体たらくを後醍醐天皇が見過ごすはずもなし。かくして鎌倉幕府は滅亡への道をたどっていくのじゃ。

その後の安藤氏じゃが、得宗被官にもかかわらず紆余曲折はあるが南北朝の世を生き残る。室町時代には北方交易でそうとう羽振りがよく、十三湊は大いに栄えたらしいぞ。戦国期には南部氏に攻められ北海道に追われたりもしたが、姓を安東氏、秋田氏と改名し、徳川時代には三春藩主として存続、明治維新を迎えている。