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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

宗良親王のこと〜偽りの言の葉にのみききなれて 人のまことぞなき世なりける

久しぶりに南北朝太平記ネタを投下。井伊谷に行ってきたばかりなんで、もちろん今回は宗良親王のことじゃ。こちら、宗良親王を奉じて井伊氏が足利軍と戦った三岳城。こちらはさすがに詰めの城。平時の居館代わりの井伊谷城とは違って、登りきるのは一苦労じやったよ。

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中腹の三岳神社にクルマをとめてひたすら登ること30分以上。途中、かなり急な勾配もあり、なめてかかるとエライ目にあうぞ。

宗良親王南朝の忠臣・井伊道政

宗良親王は応長元年(1311)後醍醐天皇の皇子として生まれた。母は二条為子。二条は歌道の家じゃから、宗良親王もその素養を積んだことじゃろう。平時であれば天台座主としておだやかな生涯を過ごせたんじゃろうが、父帝があの御方じゃからのう……元弘の戦で後醍醐天皇が北条に敗れ、隠岐島に流されたとき、宗良親王も讃岐へ配流となったんじゃ。じゃがその後、鎌倉幕府が滅んで建武の新政がはじまると、ふたたび天台座主に返り咲いている。

ご存知のとおり、後醍醐天皇の新政はすこぶる評判が悪く、やがて足利尊氏が離反して南北朝の争乱がはじまる。このとき宗良親王は還俗させられ、いやおうなく争乱に巻き込まれていく。

南朝楠木正成新田義貞北畠顕家らが討死すると、後醍醐天皇は起死回生をねらって、自分の皇子たちを各地に派遣することを計画。延元3年/暦応元年(1338)には、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へ派遣するため、北畠親房らとともに伊勢から大船団で出発させた。ところが宗良親王を乗せた船は大風に遭って三日三晩漂流して座礁宗良親王遠州に漂着し、井伊道政を頼ることになるわけじゃ。

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当時の井伊氏当主は井伊道政。遠江介、井伊介と称したとも伝わる。じゃが、江戸時代に作成された井伊氏公式の系図には「道政」の名はない。そのため道政は後世の南朝史観によって創作された人物とされ、宗良親王を奉じて戦ったのは、井伊行直じゃったともいわれておる。

ちなみに井伊直弼の懐刀で国学の師であった長野主膳が訂正作成した系図には、道政の名が加えられているらしい。尊攘志士から蛇蝎のごとく嫌われた井伊直弼の「わしらはもともと南朝の臣、うぬらにわか尊皇とちがうんじゃ!」という矜持がそうさせたのかも、と勝手に想像してみる。

井伊谷周辺にはもともと大覚寺統の荘園や御厨が多くあったことから、井伊は南朝に味方したようじゃ。すでに延元2年/建武4年(1337)、井伊道政は三方ヶ原で今川範国と戦っている。それにしても井伊と今川というのは、この頃から争っていたんじゃな。なんとも因縁を感じではないか。

宗良親王、三岳城で奮戦

宗良親王は井伊道政・高顕父子とともに三岳城で足利軍と対陣する。井伊谷はもちろん浜名湖、太平洋まで一望でき、見下ろす街道は、北は長篠、西は豊川、東は二俣へと通じており、まさに要衝の城じゃ。宗良親王の意気もあがったであろう。じゃが、その最中、後醍醐天皇崩御の悲報が届く。

思うにもなお色浅き紅葉かな そなたの山はいかか時雨るる

 宗良親王は嘆息してこの歌を詠み、四条隆資への文にしたためたという。

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宗良親王は三岳城を拠点によく戦い、鎌倉と京都の足利勢を分断した。じゃが延元5年/興国元年(1340)正月、業を煮やした足利尊氏高師泰・師冬・師兼、仁木義長た大軍勢を送り、三岳城は奮戦虚しく陥落する。宗良親王は大平城に移ってなおも抗戦するが支えきれず、信濃国大河原へと落ちていく。この後、約30年にわたって「信濃宮」を拠点に越後、越中、上野など各地を転戦することになる。それにしても八面六臂の大活躍じゃな。

信濃宗良親王を支えたのは、高時の遺児・亀寿こと北条時行じゃ。時行は中先代の乱の後、吉野に出向いて後醍醐天皇に高時の朝敵恩赦を願い出て南朝に帰参。北畠顕家軍に合力するなどして足利尊氏と戦っておった。もともと信濃国は北条得宗家の勢力基盤。そこに宗良親王を迎えてたとき、北条軍の士気も大いにあがったことじゃろう。

正平5年/観応元年(1350)、南朝方として戦っていた井伊道政が没すると、井伊氏は北朝方に帰服したようじゃ。今川了俊九州探題として赴任、懐良親王と戦ったときには遠州の武士を多数引き連れておるが、その中に井伊氏と庶子の奥山氏、早田氏らが従軍していたことを示す記録が残っている。

宗良親王新田義興、脇谷義治、北条時行らとともに鎌倉を攻略

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再び宗良親王のこと。足利尊氏と直義の兄弟喧嘩から観応の擾乱が起こると、尊氏は北朝を廃する形で南朝と和睦する。これにより、つかのまの南北朝合一、すなわち正平一統一が実現する。じゃが、こんなものが長続きするわけもない。

北畠親房は足利氏の内紛をチャンスとみるや、それに乗じて京都と鎌倉を同時に征圧することを画策。正平7年/文和元年(1352)、宗良親王征夷大将軍に任命され、新田義興・義宗、脇屋義治北条時行率いる諏訪直頼ら信濃の諸将とともに鎌倉へと攻め込むことになる。

君が為 世の為 何か惜しからん 捨てて甲斐ある命なりせば

鎌倉街道を南下するとき、宗良親王はこの歌を詠んで全軍を鼓舞した。やがて足利直義派の上杉憲顕らも加わり、宗良親王軍はついに鎌倉の占拠に成功する。

中先代の乱に続く2度目の父祖伝来の地・鎌倉奪還。時行の胸中にはさぞかし感慨深いものがあったじゃろう。あわよくば、将軍・宗良親王の執権として……いやいや、さすがにそこまでは考えなかったじゃろう。時行のことはとりあえず今日はおいておくとして、その後の宗良親王のことじゃ。

井伊谷にある宗良親王墓所

鎌倉を占拠した宗良親王軍ではあったが、やがて体勢を立て直した足利尊氏の反撃にあい、鎌倉を奪い返されてしまう。宗良親王は越後に逃れた後、ふたたび信濃国大河原に戻る。そして諏訪氏、仁科氏ら信濃南朝勢力とともに北朝方の信濃守護・小笠原長基と桔梗ヶ原で戦うなど、勢力挽回をはかっている。じゃが、やがて諏訪らに裏切られ、関東管領・上杉朝房に攻め込まれると、けっきょく劣勢を挽回できぬまま、文中3年/応安7年(1374)に吉野に戻る。じつに36年ぶりの帰還である。

吉野に戻ってからの宗良親王は、南朝の和歌集を撰述することに勢力を注ぎ、『新葉和歌集』を長慶天皇に奏覧しているが、それ以後の消息はよくわからない。最期についても、信濃国大河原で没したという説が有力らしいが、だとすれば吉野からまたかつて戦った地へと出征したということじゃろうか。ちなみに、井伊谷では吉野に戻ることなく、この地で没したと伝承されている。

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井伊谷・龍潭寺の隣に宗良親王墓所がある。明治維新後、井伊谷には宗良親王を祭神とする井伊谷宮が創建された。これは、井伊谷を発祥とする彦根知藩事・井伊直憲の出願によるもので、明治6年(1873)には、崇徳天皇を祀る白峯宮護良親王を祀る鎌倉宮とともに、官幣中社に列せられた。

現在、宗良親王墓所は、もちろん宮内庁の管理じゃ。わしが参拝したのは正月三が日で、大河ドラマ「おんな城主 直虎」の放送直前じゃったこともあり、かなりの人出じゃったが、宗良親王のお墓まで来る人は意外に少なく、ひっそりとしておったぞ。ふだんは中の方には入れないんじゃろうが、この日は門が開いていて奥の方まで入ることができたので、手を合わせてきた。

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彦根井伊家による井伊谷宮の創建

幕末維新期、彦根藩大老井伊直弼安政の大獄尊攘派を取り締まり、吉田松陰橋本左内らを死罪とする一方で、戊辰戦争では一転、新政府軍にいち早く与して会津へと攻め込んでいる。

大久保利通彦根藩について、「よほど奮発したもので、是非とも実行を上げて罪を償おうということである、実に世の中は意外なものである」と皮肉をこめて述べているが、当時、彦根藩のこうした態度は薩長佐幕双方から小馬鹿にされているような空気があったのではないかと想像する。みんな勝手なこと言うからな。

そんなわけで、井伊谷宮創建には、井伊家が古来から尊皇の家柄であることをアピールしたいという思いがこめられていたのではないかと。井伊宮の本宮横には、宗良親王を奉じて戦った井伊道政・高顕父子を祀る井伊社がひっそりと建っておった。

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井伊宮谷の鳥居の近くに、宗良親王の御製をみつけた。

偽りの言の葉にのみききなれて 人のまことぞなき世なりける

南北朝時代は、天皇がふたりいて、ふたつの朝廷がおたがいの正当性をめぐって争った異常な時代ともいえる。武士たちもまた、大義とかそんなことは実はどうでもよく、それぞれの私利私欲で天皇の権威を利用して戦ったにすぎない。あっちについたり、こっちについたり、親兄弟も関係なし。観応の擾乱とか、もう無茶苦茶じゃからな。

まあ、こうなってしまったのも、北条時宗公没後の鎌倉幕府の仕切りが悪かったからともいえるわけじゃが、とにかく万世一系、国家安寧を祈り続ける天皇家の歴史においては、不名誉な時代であったといえる。昨日の友は今日の仇、裏切りの連続に、宗良親王の嘆きの声が聞こえてきそうじゃな。

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謎多き幻の宮・尹良親王のこと

ところで、井伊道政については、その娘・重子が宗良親王との間に一男をもうけたという伝承がある。尹良(ゆきよし)親王のことじゃな。尹良親王は長じてから父親王の志をつぎ、井伊高顕とともに南朝のために戦い、南信濃の浪合で討死したといわれている。

ただ、尹良親王についてもその実在を示す同時代の記録はない。とはいえ、浪合村には尹良親王が首をとられた地も伝わっておるし、明治になってから、墓所はいちおう宮内省の管理じゃ。なにより、地域には古くから尹良親王を祀る「ゆきよし様信仰」なるものもまであると聞く。やはり、まるっぽ嘘ということもないように、わしには思える。井伊の地を引く謎多き幻の宮・尹良親王。「おんな城主 直虎」が放送しているうちに、ちょっと勉強してみようかと思っておる。

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Wikipedia より尹良親王墓所