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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

北条与党は鎌倉幕府滅亡後、かく戦えり

元弘3年(1333)、北条高時以下一族門葉は、新田義貞に攻め込まれ、東勝寺の炎の中で自刃し、鎌倉幕府は滅亡した。ただ、その後も北条与党はさまざまな思惑をもって各地で蠢動する。今回はそのあたりを少々。

鎌倉北条氏の幟

赤橋登子、覚海尼…

北条一族の生き残りといえば、まずは足利尊氏の正室・登子じゃろう。登子は赤橋守時の妹で、彼女が生んだ千寿王は後の室町幕府2代将軍・足利義詮じゃ。

元弘3年(1333年)に夫・足利高氏が、宮方の反乱を鎮圧するためにのために上京した際、登子は千寿王とともに人質として鎌倉にとどめ置かれた。その後、高氏が裏切り、六波羅を攻めると母子は鎌倉からの脱出に成功する。高氏の計画を登子がどこまで知っていたのかは定かではないが、兄の執権・赤橋守時は、高氏との内通への嫌疑を晴らすため、自ら新田軍に吶喊して討死。その後、鎌倉は新田義貞に攻め落とされ、北条氏は滅亡する。

登子はその後、初の鎌倉公方となる足利基氏のほか、娘・鶴王を設けている。足利尊氏が室町幕府を開くと、御台所として従二位に叙せられ、尊氏が没後は「大方殿」と呼ばれた。ちなみに尊氏の庶子・直冬には冷たかったというのは大河ドラマ「太平記」の通りじゃよ。

僧侶となって生きのびた者たちもいる。高時の母・覚海尼は伊豆韮山に円成寺を建立し、わしら一族の冥福を祈りながら余生を過ごした。園城寺の僧・弁基は名越宗基の子で鎌倉幕府滅亡後もそのまま勤めをはたしている。赤橋守時・登子の兄弟である時宝は、東大寺の寺務代を勤めている。

北条与党による建武政権への反乱

鎌倉幕府再興のために、建武政権と戦い続けた者も数多い。中先代の乱をおこした北条時行はつとに有名じゃが、そのほかにも北条氏の旧領や守護をつとめた国で、多くの与党が北条を担いで隆起している。

  • 元弘3年(1333)12月、名越時如、安達高景が陸奥大光寺城で蜂起。北畠顕家に鎮圧されるも、得宗被官津軽一族は石川盾で翌年6月まで抵抗
  • 建武元年正月、鎮西探題赤橋英時の猶子となった規矩高政が筑前帆柱城で、実弟の筑後堀口城で糸田貞義が挙兵
  • 建武元年3月、大仏北条氏の被官・本間氏、得宗被官の渋谷氏が関東で決起し鎌倉に攻め込む。同年8月には江戸氏、葛西氏も挙兵
  • 建武元年7月、桜田時厳の子孫・遠江掃部助三郎が大隅国で挙兵
  • 建武元年10月、紀伊国飯盛山で佐々目僧正顕宝が挙兵。顕宝は東大寺西室院院主で金沢流北条氏
  • 建武2年正月、元長門探題北条時直の子・上野四郎入道が越後左近将監入道らとともに長門国佐加利山城で隆起
  • 建武2年2月、赤橋宗時(守時の弟)の子・赤橋駿河太郎重時が伊予国立烏帽子城に挙兵
  • 建武2年4月、北条高安が足利尊氏・新田義貞注察を計画するも露見し、京都毘沙門堂に立て籠る

いずれも散発的ではあるが、北条与党の反乱は不満分子たちと結びつき、建武政権にとっては悩みの種であった。そして建武2年6月には、北条時興(泰家、高時の弟)が公家の西園寺公宗をそそのかして後醍醐天皇の暗殺を計画している。

そして、それと呼応して信濃国諏訪では北条時行が、北国では名越時兼が挙兵。それぞれが鎌倉、京都をめざした。この大胆な計画はけっきょくはうまくいかなかったが、足利尊氏の離反という後醍醐天皇にはじつに痛い結果を招くこととなる。

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足利幕府に抵抗を続ける北条与党

足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻し、南北朝の騒乱がはじまると、北条与党は南朝に帰順して足利と戦うことになる。「太平記」の中の北条時行はこう述べている。

尊氏が其人たる事偏に当家優如の厚恩に依候き。然に恩を荷て恩を忘れ、天を戴て天を乖けり。其大逆無道の甚き事、世の悪む所人の指さす所也。

「足利だけは許さん!」というこの気持ち、おそらく北条与党には共通のものだったはずじゃ。

建武3年/延元元年2月、中先代の乱からわずか半年ののち、まず大夫四郎(北条時興か)が信濃で挙兵し、手薄になっていた鎌倉に侵入する。

翌年には、元六波羅探題普恩寺仲時の子・北条友時が上総で挙兵した。 友時は暦応2年(1339)にも伊豆国仁科城で挙兵するが、このときにらえられ、延元4年2月、鎌倉龍ノ口で処刑されたという記録がある。

各地を転戦していた北条時行が龍ノ口で処刑されたのは正平8年/文和2年(1353)5月20日のこと。ここに北条得宗家は断絶する。鎌倉幕府滅亡後、じつに20年もの歳月が過ぎていた。

このくだり、「逃げ上手の若君」でどう描かれるか、注目じゃな。

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建武政権の評価

鎌倉幕府再興をめざし、北条一族や御内人は各地で決起した。そして、それを支えたのは建武政権に不満を抱く者たちじゃ。

「今の例は昔の新義なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」。後醍醐天皇は摂政関白、征夷大将軍を置かず、天皇親政をめざした。じゃが、急進的な改革の評判はすこぶる悪かった。それは「二条河原の落書」や当時の公家の日記に記された新政への批判からも明らかじゃろう。北畠顕家ですら、後醍醐天皇に諫言しているくらいじゃからな。

もちろん、昨今では建武政権の評価の見直しも進んでいる。たとえば法制度は鎌倉時代のそれを漸進的にすすめたもので、室町幕府にも引き継がれていることから、一定の評価を与える研究者は多い。公家に厚く、武家に冷淡な政権であったというのも一面的な見方なようじゃ。

ただ、土地をめぐる訴訟では、すぐに馬脚を顕した。御恩と奉公という御家人と将軍の関係をぶっ壊し、土地領有をめぐる争いをすべて自らの綸旨によって安堵するなどというのは不可能なことはわかりきっていた。

それでも雑訴決断所を設置し、二階堂や飯尾など鎌倉幕府の奉行人まで連れ込んで対処しようとしたけれど、訴訟事務は遅滞をどうすることもできなかった。

所領問題を裁けなければ、武士を治めることなど到底無理。かくして、そうした不満は北条与党と結びつき、建武政権の瓦解につながっていくわけじゃ。

そう考えると、やっぱり鎌倉幕府が続いていたほうがよかったのではないかと、わしは思うんだがどうじゃ? 後醍醐天皇が私利私欲で幕府を倒したものの、けっきょく国を治めることができず、足利尊氏の裏切りにより万世一系の皇統が分裂して無用な内乱を引きおこした。足利は足利で内訌をくりかえしているし、いったい誰得の鎌倉炎上だったんじゃ?