闘犬乱舞。北条高時ブログじゃ

うつつなき太守による歴ヲタの備忘録

勤王僧・月照と西郷吉之助が入水自殺した件

「西郷どん」では月照と西郷が錦江湾に身投げしたので、今回は勤王僧・月照について書いておくぞ。

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月照は文化10年(1813年)、大坂の町医者の長男として讃岐国吉原(現在の善通寺市)に生まれた。叔父を頼って京都・清水寺成就院に入り、住職となったのは、時あたかも黒船来航で世間はてんやわんやの時期。わざわざ京に上る時点で、月照さんは町医者で終わるようなキャラではなかったわけじゃし、京都にいけば尊王攘夷に傾倒していくのは当然のことじゃろう。

京で月照近衛忠煕から和歌を学んでいた。近衛家はもともと薩摩の島津家とは関係が深く、近衛忠熙島津斉彬は親戚筋にあたる。そんなことから斉彬は近衛家に財政援助もしたし、朝廷工作では忠熙を頼っていた。そんなこともあり、西郷と月照は将軍継嗣問題では一橋慶喜擁立に向けて、ともに奔走した。篤姫近衛家の養女になってから将軍家定に嫁いでおるしな。

じゃが、事態は西郷や月照の思惑通りには進まない。井伊直弼大老に就任すると将軍継嗣は紀州の慶福に決定。日米修好通商条約は調印され、頼みの島津斉彬は急死。このとき、悲嘆にくれる西郷が殉死しようとするのを諭したのは月照だと言われている。

その後、近衛忠煕が暗躍し戊午の密勅を水戸に下すと、これが井伊直弼の逆鱗に触れ、安政の大獄が始まる。追われる身となった月照は西郷とともに京を脱し、薩摩に逃れるのじゃが、藩当局は厄介者である月照の保護を拒否し、「日向国送り」を命じる。これすなはち、薩摩と日向の国境で殺害せよという藩命であった。

西郷は月照一人を殺すことなどできず、ともに錦江湾で入水自殺を図る。ご存知のとおり、このとき月照は死亡したが、西郷は平野国臣に助けられ、奇跡的に一命を取り留めている。月照享年46。西郷はよほどこのことが残機に耐えなかったようで、潜居を命じられた奄美大島では、しばらく自暴自棄の生活を送ったという。

後に西郷は、長岡監物宛の書簡で、このときのことを次のように述懐している。

私事、土中の死骨にて忍ぶべからざる儀を忍びまかりあり候次第、天地に恥ずかしき儀の御座候えども、今更になりて候ては、皇国の為にしばらく生をむさぼり居り候。

私は一旦死んだ人間であり、土の中の死骨に等しく、その恥を忍んでいる身だが、しばらくは皇国のために命を長らえている。

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」は吉田松陰の言葉じゃが、奇跡的に蘇生した西郷は、これを天命と知り、後に維新回天の偉業に邁進していくことになる。もし、このとき西郷が死んでいたら、どうなっていたか。たしかに、これ、天が命じるところだったのかもしれんな。

大君の ためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも

「眉目清秀、威容端厳にして、風采自ずから人の敬信を惹く」と伝えられる勤王僧・月照の辞世じゃ。

維新後、月照の17回忌にあたり、西郷は鹿児島の相国寺を訪れ、墓前で号泣して次の句を詠んでいる。

相約して渕に投ずるに後先無し
あに図らんや波上再生の縁
頭を回らせば十有余年の夢
空しく幽明墓前に哭す

なお、「西郷どん」では描かれていないが、西郷は後年、このときのことを振り返り、舟の舳先に出て小便をしている月照を背後から抱きかかえ、ともに身投げした証言している。なんでも撃剣で法体を汚すことは良くないと判断したというのじゃが……これはちょっと、西郷の詩も興醒めな感じがするのう。

(´-`).。oO(てか、月照さまもお●っこするんだ……