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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

棚倉藩の十六ささげ隊〜細谷からすと十六ささげ、なけりゃ官軍高枕

「仙台からすと十六ささげ、なけりゃ官軍高枕」。昔からこの俗謡がどうも気になっていた。「仙台からす」は仙台藩士・細谷十太夫が率いた衝撃隊・通称「鴉組(からすぐみ)」は有名じゃが、棚倉藩の「十六ささげ」はどうもよくわからん。ということで、白河を訪れたのを機に、せっかくなので棚倉藩と十六ささげについて調べてみたぞ。

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ちなみに、こちらが「白河戊辰戦争150年」のピンバッチデザイン。右側が十六ささげのイメージらしい。なお、細谷からすこと細谷十太夫いついては、こちらをご覧くだされ。 

棚倉藩と戊辰戦争 

まずは棚倉藩について。慶長8年(1603)、関ヶ原で西軍に与して改易となった勇将・立花宗茂が、ようやく徳川に許されて1万石で立藩したのが棚倉藩の始まりじゃ。その後、丹羽長重が5万石で入部して棚倉城を築城。以後は内藤家、太田家、松平(越智)家、小笠原家、井上家、松平(松井)家が治め、幕末へと続いていく。

慶応元年10月(1866)、白河から阿部正静が入部する。正静の父・阿部正外は老中をつとめたが、勅許がないまま兵庫開港を約したために謹慎処分となり、棚倉藩10万石への転封となった。その後ほどなく大政奉還、鳥羽伏見の戦いがおこり、戦雲は東北に飛び火してくる。

慶応4年(1868)2月、江戸から阿部正静を白河藩に再封するとの沙汰があった。じゃが、このときすでに新政府軍は江戸に迫り、奥羽諸藩にも会津追討の命が下っており、この所替えは中止になる。譜代の阿部家を白河の要衝に入れて、江戸の連中はどうするつもりだったんじゃろうか。再封中止の措置は新政府の意向であったんじゃろうか。その辺の事情はよくわからない。

閏4月、仙台にやってきた奥羽鎮撫総督は奥羽各藩に会津庄内への出兵命令を出す。当初、棚倉藩もこれに応じて300の兵を出している。

五日会津征討の命下り、翌六日改めて庄内征討の旨伝はる、家老富賀須庄兵衛を将とし、中老平岩頼母を副とし、士卒約三百、途を須賀川に取り堂々進発す。会々、参謀世良、白河に在り兵を会津に転ぜんことを命ず。乃ち将士須賀川に停まる。(『東白川郡史』)

その後、奥羽諸藩による白石会議の前後から、棚倉の反論は佐幕へと転じていく。老中まで出した譜代藩だし当然かもしれない。

閏4月18日、奥羽鎮撫軍参謀・世良修蔵が白河から仙台に向かうと、会津藩はその隙をついて白河城を占拠する。20日には世良が仙台藩士に斬殺され、奥州での戦いはいよいよ不可避となった。かくして棚倉藩は、会津、仙台、二本松と協力して、白河にて新政府軍の北進を阻止すべく出兵する。

棚倉藩・十六ささげ(誠心隊)の活躍

小峰城跡三重櫓・前御門

白河小峰城跡三重櫓・前御門

棚倉藩は25日、家老・阿部内膳の指揮のもと、400の藩兵を旧領白河へと進発させた。すでに奥羽諸藩は一致して薩長の新政府に抗することを決めていた。

同月二十五日、棚倉城、号砲を放って兵を集め、白河に進発す。城内十柵砲を放ち、令を四方に伝う。士卒、疾駆して集り、陣容、忽に整はる。 (『東白川郡史』)

5月1日、伊地知正治率いる新政府軍が白河城攻略戦を開始した。奥羽列藩同盟軍2500に対し新政府軍は700。普通なら負ける戦いではないが、参謀伊地知正治の作戦がズバリとあたり、同盟軍は思わぬ敗戦を喫してしまう。

棚倉藩兵は野津道貫率いる薩摩・長州藩・大垣藩兵と棚倉口桜町でぶつかった。野津道貫は後に日清・日露戦争に参戦する猛将じゃ。また火力の差もあったことから同盟軍はたちまち苦戦に陥る。

五月一日寅の刻(午前4時)、西軍兵を分かちて三道より白河を襲う。卯の刻上限(午前6時)、西軍棚倉桜町方面より大砲小銃発することすこぶる激しく、純義隊以下の諸隊はほとんど危うし。(『会津戊辰戦史』

ここで登場するのが棚倉藩家老・阿部内膳が指揮する「誠心隊」、通称「十六ささげ」じゃ。隊名の由来は、インゲンに似たジュウロクササゲというお豆で、さやの中に入っている赤褐色の16個のお豆を十六 人の勇士に掛けたものだという。

古装十六士、別手隊長有田内記等十六名。頑として洋化を斥け、特に乞ふて一家伝来の鎧甲冑を着け金光燦然として蘭兵の間を縫ふ最も衆目を惹きしと伝ふ。(『東白川郡史』)

前藩主の阿部正外は老中として諸外国の軍隊に通じていたことから、棚倉藩では早くから藩軍の洋式化をすすめていた。じゃが、彼らはあくまでも先祖古来の槍と弓にこだわった。かくして十六ささげの決死隊は「薩長何するものぞ!」という気概でこの戦いに挑んだ。

この激戦で阿部内膳は金勝寺付近で戦死し、十六ささげも壊滅する。ちなみに、十六ささげの隊員は以下の通り。

阿部内膳、有田大助、大輪準之助、北部史、志村四郎、川上直記、梅村弥五郎、須子鋭太郎、宮崎伊助、鶴見滝蔵、富田熊太郎、湯川賢九郎、阿部鏡蔵、村社勘蔵、野寺均、山岡金次郎

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白河市内の常宣寺には、阿部内膳の墓がある。また会津藩士の供養塔もあったので、まずはそっと手を合わせてきた。

ところで、細谷からすとともに新政府軍を恐れさせたと言われる十六ささげじゃが、この白河口の戦い以外に目立った活躍の記録はない。それなのに、なぜ「仙台からすと十六ささげ、なけりゃ官軍高枕」という俗謡が生まれたのか。おそらく白河の人々の棚倉藩士へのオマージュなんじゃろう。

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なお、ほど近くの関川寺には「棚倉藩士・小池理八」なる武士の供養塔があった。小池理八は新政府軍の城下侵攻を食い止めるために棚倉口で奮戦。残念ながら足に重傷を負い受け、立つことができなくなり、割腹して果てたという。

松平定信が造営したという南湖の近くには家老・平田文左衛門が建立した棚倉藩鎮英碑がある。いまでも秋の彼岸には、旧土佐藩士と白河の有志が合同慰霊祭を行っているらしい。

今回は残念ながら時間がなかったので訪問することはできなかったが、この街はいたるところに東西両軍の供養塔がある。100日にも及ぶ大戦があった白河ならではかもしれない。

棚倉落城とその後

同盟軍はその後も白河奪還を試みるがことごとく失敗。そうこうしているうちに新政府軍は土佐藩兵、阿波藩兵なども来援して盤石の体制を整えてくる。そして平潟を陥落させた新政府軍は6月24日、板垣退助率いる薩摩、長州、土佐、忍、大垣5藩の兵800と砲6門で棚倉藩領へと攻めこんできた。これは浜街道の北上を意図する軍と歩調を合わせたもので、会津仙台攻めにあたって後顧の憂いを断つための作戦でもあった。

当初、伊地知正治は川村純義と図り、棚倉藩に恭順を進めようとした。そこで、ちょうど白河の大統寺の住職・賢邦が薩摩の出身だったので交渉のために派遣している。じゃが、賢邦はその途上、棚倉藩士に行く手を遮られて虚しく戻ってきてしまう。賢邦が出会った藩士というのは、バリバリの佐幕派だったんじゃろう。

かくして新政府軍は棚倉城に攻め込んだ。棚倉藩は白河口や平潟に多くの兵を出したこともあり、明らかに戦力が不足していた。しかも同盟軍は、新政府軍が棚倉攻めをしている今こそ白河城奪還のチャンスと捉えて攻勢に出たため、棚倉の守備に応援部隊を派遣することができなかった。

官軍の進撃頗る猛烈、朽ちたるを摧くが如く

棚倉藩は藩境で新政府軍を迎え撃ったがあっけなく敗れ、棚倉城は落城する。藩主父子は敗残の兵を集めて伊達郡保原に退き、城下は劫火に包まれた。

7月、同盟軍は白河口の戦線膠着を打開するために棚倉奪還を目指して棚倉北東の浅川に進出、土佐藩兵、彦根藩兵と戦っている。はじめ同盟軍は善戦したが、敵に増援部隊が到着すると、あえなく撃退されてしまう。この浅川の敗戦以後、同盟軍は白河城と棚倉城の攻略を断念し、戦線は郡山へ後退することになる。

ちなみに『仙台戊辰史』では、この戦闘について、三春藩が裏切って後方から銃撃を浴びせたせいで負けたと記している。ただ、新政府側他、他の記録にはそうした記述はなく、本件については濡れ衣の可能性が高い。

もっとも三春藩は浅川の戦いの数日後には新政府に恭順の使者を送って、裏切るのは一緒じゃがな。まあ、この件については三春藩の言い分もあるようじゃから、またあらためて書くとしよう。

現在の棚倉城

現在の棚倉城(Wikipedia)

9月18日、藩主・阿部正静は分領の保原陣屋で新政府軍に降伏する。棚倉藩の戦死52人、戦傷35人。12月には4万石を削減され6万石となり、家督を義理の叔父・正功に譲り、東京で謹慎処分となる。そして明治11年(1878)1月23日、東京で死去。享年28。明治20年(1887)には前藩主・正外も4月20日に東京で死去した。享年59。

譜代藩とはいえ、筆頭の彦根藩始め多くの藩は早々に新政府に帰順している。そんな中、棚倉藩は地政的にも戦わざるを得なかった。「仙台からすと十六ささげ〜」として、その名が記憶されたのが、せめてもの慰めと言えるかもしれぬ。

なお、白河口の戦いについては次のエントリーもお読みいただければ幸いじゃ。

takatokihojo.hatenablog.com