鎌倉ではたらく太守のブログ

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相模国の名族・波多野氏のルーツを調べてみた

秦野に源実朝公御首塚を訪ねてきたときのいわば「こぼれコラム」ということで、この地を治めていた波多野氏についてじゃ。

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波多野城址と東田原中丸遺跡

波多野城址(館跡)は小学校の西にあった。実朝公の御首塚から歩いたら思いのほか遠く、かなり後悔した。それでも現地には石碑や案内板が建てられており、ここに居館があったんだーとイメージをふくらませていたが、なんのことはない。これまでの発掘調査では城の遺構も何も出なかったというではないか。

いっぽう、御首塚がある「秦野市田原ふるさと公園」として整備されているあたりは東田原中丸遺跡と呼ばれており、そこからは古墳時代の集落跡や鎌倉時代の武士の館跡と考えられる遺構が発見されたらしい。当時、鎌倉で使用されていた「かわらけ」という皿(土器?)も数多く出土していることから、どうやらそちらが波多野氏の館跡のようじゃな。

波多野氏の祖は「俵藤太」こと藤原秀郷

「秦野」という名称は、養蚕や機織りの技術にすぐれた渡来人・秦氏に由来するという。じゃが、それを裏付ける史料はなく、平安時代の文献に初めて「幡多」という地名が出てくる。

平安時代末から鎌倉時代にかけて、この地は波多野氏が治めていた。波多野氏の祖は「俵藤太」こと藤原秀郷で、近江三上山の百足を退治した人物じゃ。秀郷は平将門の乱を平定すると、その功により武蔵・下野の国司に任じられている。

そして秀郷の孫・佐伯経範がこの地に移り住み、波多野氏を名乗る。以後、波多野氏は源氏の家人として活躍し、「陸奥話記」によると、経範は前九年の役に参戦している。黄海の戦いで源氏軍は安倍氏の前に壊滅的な敗北を喫した。このとき、経範は単独で敵中を突破したが、源頼義公が敵に囲まれているのを発見する。

「我将軍と事をするに、すでに三十年を経る。老僕の年すでに耳順に及ぶ。将軍の齢また懸車に逼る。今、覆滅の時に当り、何ぞ命を同じくせざらんや。地下に相従うは、これ吾が志なり」

経範は、すぐさまとって返し頼義を救出するが、自らはここで戦死した。もし、経範の奮闘がなかったら、源氏はここで没落していたというわけじゃな。

源義朝に重用された波多野義通

経範の孫・波多野義通は、妹が源義朝の側室となって次男・源朝長をもうけたことから、その側近として重用された。保元の乱では義朝に従って後白河天皇方として戦い、源為義の4人の幼子を殺すという汚れ役を与えられている。

平治の乱でも義朝に従軍したが、戦況は利あらず。東国での再興を期して敗走する途中、朝長は美濃国青墓で戦傷が悪化して、義朝の介錯で自刃。義朝もまた、味方の裏切りにあって殺されてしまう。どこまで義通が義朝、朝長に付き従っていたかはわからぬが、いずれにせよ波多野に帰って雌伏することとなり、家督はその子・義常が嗣ぐことになる。

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源頼朝の挙兵に応じなかった波多野義常

そして治承4年7月、源頼朝が石橋山に挙兵する。じゃが、このとき波多野義常は、頼朝の参陣要請を拒否している。

治承四年七月十日庚申。(安達)藤九郎盛長申して云はく、厳命之趣に従い、先ず相模国内に奉を進める之輩之多し。 而に波多野右馬允義常、山内首藤瀧口三郎経俊等者、 會て以て恩喚に応ぜず。剩(あまつさ)へ條々の過言を吐くと云々。

どんな暴言を吐いたのかはわからんが、義常はおそらく大庭景親と連携したんじゃろう。そのため、後に頼朝から討手を差し向けられ、義常は松田郷の館で自害して果てている。

じゃが、義常の嫡男・波多野有常は大庭景義に保護されていた。「吾妻鑑」には、有常が頼朝の御前で流鏑馬を披露し、それが賞賛され、松田郷を与えられたとある。

鶴岡宮臨時祭。二品御参り。流鏑馬、専らその堪能を召さる。故波多野右馬の允義経(常)が嫡男有経(常)、曩祖に恥じざる達者なり。仍って今日の清撰に応ず。頗る抜群の芸を施す。御感の余り一村(亡父所領の随一と)を給う。父義経、去る治承四年誅戮の後、囚人として景能に召し預けらるる所なり。七箇年を経て、遂にこの慶賀有りと。

以後、有常は松田氏を称する。まさに、芸は身を助けるというやつじゃな。 

承久の乱で奮戦した波多野義重

波多野の家は義常の叔父・波多野義景が嗣いだ。義景は奥州征伐で武功をあげると、東大寺供養にも供奉し、頼朝の信頼を得た。じゃが、頼朝の死後、和田合戦が起こると、義景の子・盛通が和田方についたことが原因で、波多野の家督は義常の弟・忠綱が嗣ぐことになる。

源実朝公暗殺の際、三浦の家人・武常晴が実朝公の御首を波多野荘に運んできた。忠綱は御首塚をつくり、実朝公の三十三回忌には退耕行勇を招いて金剛寺を建立し、その菩提を弔っている。

忠綱の子・波多野義重は北条重時の娘を娶り、北条の血縁となる。承久の乱では北条泰時公・時氏公とともに京軍と戦っている。墨俣の戦いでの奮戦ぶりが「吾妻鑑」に記されている。

官軍三十許輩相構えて合戦す。楯を負い精兵を撰び東士を射ること数返に及ぶ。武蔵の太郎、善右衛門太郎・中山の次郎等をしてこれを射返せしむ。波多野の五郎義重先登に進むの処、矢石右目に中たり、心神違乱すと雖も、則ち答箭を射ると。官軍逃亡す。 

義重は右目に矢を受けながらも敵に矢を射返して奮戦した。その武功により、越前国に所領を与えられ、六波羅探題評定衆に任じられている。また道元に帰依し、永平寺創建にも尽力したらしいぞ。

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その後も、波多野氏は鎌倉幕府御家人として重用された。元弘の変では、六波羅探題評定衆をつとめていた波多野宣通が、後醍醐天皇比叡山東坂本に攻めている。じゃが、鎌倉幕府滅亡後は没落。かわって越前波多野氏がその実務能力を買われ、足利幕府に重用され、代々評定衆を務めることになる。

ということで、波多野氏というのはなかなかの名族で、源頼義公以来の源氏の忠臣というわけじゃ。なるほど、そう考えれば、この秦野の地に武常晴がわざわざ実朝公の御首を運んできた理由がわかる気がする。花鳥風月を愛した実朝公じゃ。権力争いに明け暮れている鎌倉なんぞに埋葬されるより、御首はよほど喜んでおるに相違ない。