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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

令和改元。初春の令月にして気淑く風和ぐ

令和元年5月1日、いやいやめでたい。「平成」から「令和」へ、今回の改元は祝賀ムード一色じゃな。ちなみに、こちらは先日、太宰府天満宮に立ち寄った時の写真じゃが、街はすっかり盛り上がっておったぞ。

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ご存知の通り、新元号「令和」の由来は「万葉集」。奈良時代大宰帥大伴旅人が管下の部下を集めて「梅花の宴」を催し、32首の歌を詠んだときの序文「初春令月、気淑風和」(原文は漢文)からとられたものじゃ。

大伴旅人文人としてはもちろん、軍人としても才を発揮した人物で、隼人の反乱の鎮圧にも功を挙げている。藤原不比等が没すると京に戻り、順調に昇進している。60歳を過ぎて大宰府に赴任する。大宰府では山上憶良らと筑紫歌壇を形成し、多くの歌を残している。長屋王の変の後、再び京に呼び戻されて政務にあたるが、まもなく没。有名な大伴家持は旅人の息子である。

大伴旅人

大伴旅人Wikipedia)

「梅花の宴」は太宰府政庁のほど近くにあった大伴旅人の邸宅、現在の坂本八幡宮あたりで開かれたらしい。「万葉集」にはこうある。

天平二年正月十三日 帥の老の宅に萃(あつま)りて宴会を申ぶ。
時に初春の令月にして気淑く風和ぐ
梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫らす。
しかのみにあらず曙は嶺に雲を移し、松は羅を掛けて盖を傾け、夕べの峰に霧を結び、鳥はうすものに封りて林に迷ふ。
庭には舞ふ新蝶あり、空には帰る故雁あり。
是に天を盖にし地を坐(しきい)にし、膝を促して觴(さかづき)を飛ばし、言を一室の裏に忘れ、衿を煙霞の外に開き、淡然として自放に、快然として自ら足れり。
若し翰苑にあらずは、何を以てか情をのベむ。
請ひて落梅の篇を紀さむと。古今それ何ぞ異ならむ。
園梅を賦し、聊か短詠を成むベし。

「梅花の宴」ジオラマ

太宰府展示館にある「梅花の宴」ジオラマ

天平2年正月13日、太宰府の帥・大伴旅人の邸宅で宴会だ。
初春の月が美しく、風も和らぎ、梅は白粉ように色づき、蘭が香っている。
山の嶺には雲がかかり、松には霞がかかり、霧がたちこめ、鳥は迷う。
庭には蝶が舞い、空には雁が帰ってゆく。
空を屋根にし、地を座敷にし、ひざを突き合わせて酒を酌み交わす。言葉さえ忘れ、着物をゆるめてくつろぎ、満ち足りた気分で過ごす。
もし和歌がなかったら、この情景を表現することはできない。中国の漢詩では落梅が詠まれているが、もちろん和歌でもできるはず。
さあ、この園梅を題材にして。歌を読もう。

現代語訳すると、こんな感じか。

梅花謌卅二首并序

万葉集』巻五の「梅花の宴」序文の該当箇所(WikiPedia

万葉集」に典拠を求めたというのは、なかなかによきアイデアじゃな。じゃが、その点については識者からいろいろな指摘があるようじゃ。

例えば、後漢文人・張衡の「帰田賦」という詩に、「仲春令月、時和気清」というくだりがあるからじゃ。「万葉集」のこの記述は、それを参考にしたと考えられるので、「令和を国書由来とするのはフェイクだ!」という意見がある。

それはたしかにそうなのかもしれぬ。じゃが、万葉人が詩歌にかぎらず、中国の文化をお手本にしたのは自明のことで、漢文学の影響があるのは当たり前。そこから万葉文化が生まれているのであって、これはパクリとは違う。「令和」の典拠を「万葉集」とすることに、わしはなんの問題もないと思うがな。

「命令や令状の“令”を使うなんてダメだ」「漢籍をやめたのは右傾化だ」「安倍は元号を私物化している」と文句を言っている連中もいるらしい。まあ、そういう「なんでも文句をつけたいマン」が一定数いるのは当たり前で、そんなことで、このめでたい気分に水を差されることもないじゃろう。


「即位後朝見の儀」に臨む新天皇陛下

わしは「剣璽等承継の儀」には厳粛な気持ちになったし、「即位後朝見の儀」での天皇陛下のお言葉も感動した(小並感)。

「ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します」

「令和」が、平和でよき時代になることを、わしも切に願っておるぞ。