鎌倉ではたらく太守のブログ

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肥前名護屋城跡で、秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)について考えてみた

鳥栖遠征の往路、以前から訪れてみたかった肥前名護屋城跡に行ってきた。博多からJRとバスを乗り継いで往復4時間以上もかかったが、歴ヲタなら一度は訪れておきたいスポットじゃよな。

名護屋城跡

名護屋城

 肥前名護屋城とは

「今日はどちらから?」

到着すると早速にガイドさんに声をかけられた。わし一人しかいないので、案内を頼むのは気が引けたんじゃが、せっかく来たのにぼーっと歩いていているのも如何なものかと思い、案内してもらうことにした。ちなみに案内料は200円と実にリーゾナブルじゃよ。

名護屋城跡は玄界灘の海岸線沿いに広がる小さな湾内にある。中世には松浦党の交易拠点の一つじゃったが、文禄・慶長の役のときに突貫工事で築かれた。以後、秀吉の死で撤退するまでの7年間、名護屋は大陸侵攻の拠点となった。

面積は約17ヘクタール。当時としては大坂城に次ぐ規模を誇る堂々たる城じゃ。周囲には全国から130以上の諸大名が陣屋をつくり、最盛期には10万以上の人が名護屋に滞在したらしい。

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徳川家康前田利家石田三成真田昌幸伊達政宗島津義弘……北から南まで、戦国オールスターが揃い踏み。ちなみに最大の軍役は毛利輝元の30,000人、最小は津軽為信が50人とある。なんと、ここには北条氏規もいたんじゃな。

天正15年(1587)5月、九州征伐を終えた秀吉は、明の征服を目指して李氏朝鮮に服属と出兵の嚮導を求めた。じゃが、これは現代の日本に「アメリカに攻め込むから手引きをせよ」というようなもので(ちょっと違うかw)、朝鮮が受け入れるわけがない。

かくして天正19年(1591)8月、朝鮮への出兵が決まった。秀吉は手始めに九州の大名に名護屋城の築造を命じる。このとき秀吉は、名護屋という地名が自分が生まれた那古野と同じということに奇縁を感じ、しかも山の名称が勝男山と縁起がいいと、たいそうご満悦だったとか。

総奉行は浅野長政、城の縄張りは黒田官兵衛、普請奉行は黒田長政加藤清正小西行長寺沢広高らが務めた。石垣はいわゆる「野面積み」じゃが、よくみると場所によって、その積み方が大きく異なる。

ガイドさんがいうには、普請した武将によって異なるとのこと。ただ、だれがどこを担当したのかまでは記録にないらしいが、「ここは加藤清正かな?」と勝手に想像しながら歩くのも悪くない。

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秀吉は早くから外征を考えていた?

ところで、なぜ秀吉は「唐入り」なんて大それたことをやったんじゃろうか。とぼとぼ歩きながら考えてみる。あんなでかい国、どこまで攻め込むつもりだったんじゃ?

一説には、織田信長が「唐入り」を構想しており、秀吉はそれに習ったという。もっとも、これはイエズス会の報告書に書かれているだけなので、真偽のほどはイマイチ定かではない。

ただ堀正意の「朝鮮征伐記」には、信長に毛利攻めを命じられたとき、秀吉は「毛利征伐のあとは九州を平定しましょう。その後、一年もあれば私が大船で朝鮮へ攻めこみます」と豪語したという逸話も伝えられている。

史料的には、天正13年(1585)9月、秀吉が関白に就任した頃、一柳直末宛の書状に「秀吉日本国之事ハ不及申、唐国迄被付候心ニ候歟」とあり、この頃には「唐入り」を構想していたことが伺える。

また、ルイス・フロイスの「日本史」によれば、翌天正14年3月、秀吉はイエズス会ガスパルコエリョ大坂城で引見し、日本を秀長に譲り、自身は朝鮮と明を征服することを明言している。そして、すでに2000隻の船の準備をしているので、重装備の軍艦2隻を斡旋してほしいと要請している。秀吉はもう、完全にやる気である。

豊臣秀吉

豊臣秀吉

秀吉が「唐入り」を決めた理由は?

ところで、秀吉が「唐入り」を決めた理由については諸説あるが、ざっくり整理すると下記のようなことが言われている。

  • 秀吉の名誉欲、権力欲
  • 鶴松死亡の鬱憤晴らし。秀吉の老害、耄碌
  • 天下統一、恩賞として与える領地を拡大するため
  • 東アジアの貿易利権得という経済的な理由
  • 南蛮人のアジア進出への対抗。キリスト教布教への反発
  • 明を中心とする東アジア秩序の破壊。秀吉の国際戦略。

さすがに耄碌したとか、鶴松死亡の鬱憤晴らしというのは天下人に対して馬鹿にし過ぎじゃろう。ドラマや小説に出てくる晩年の秀吉をみるとそんな感じもしないではないが、それは後世の印象操作じゃろう。

名護屋城東出丸跡

名護屋城東出丸跡

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最近注目されているのは、「秀吉は東アジアに新秩序をつくろうとした」という説らしい。

16世紀後半の東アジアは華夷秩序が支配していた。明国は海禁政策をとり、朝貢以外の交易は認めず、自由な経済活動は制限されていた。一方でアジアにはスペインやポルトガル人が進出してきた。すでにこの時期、フィリピンの一部はスペインの植民地になっている。キリスト教を布教し、その後、軍隊と商人を送り込んでくる。これは南蛮人の常套手段じゃな。

秀吉はこれを警戒した。南蛮人に好き勝手やられる前に、旧態然とした明に一発かまして、東アジアの交易利権を握ってやろうと考えたというんじゃな。

じっさいに秀吉は、ゴアのポルトガル政庁、マニラのスペイン政庁、高山国(台湾)、琉球にも服属と入貢を求める文書を送っている。もっとも、これは夜郎自大すぎて相手にされなかったようじゃが、明を屈服させれば事情は変わってくる。

そもそも秀吉は、明は「長袖国」(公家の国)、日本は「弓箭の厳しい国」と、明の武力を侮っていた節もある。たとえ明を征服することはできなくても、一定の譲歩を引き出すぐらいの勝算はあったのかもしれない。

「唐入り」には秀吉の壮大な国際戦略があったんじゃ。なんとなく後世の「大東亜共栄圏」みたいで胡散臭い感じがするかもしれぬが、まったくありえない説とは言い切れないはず。

結果を知っているからわれわれ後世の者からは無謀にしかみえないが、秀吉は自分の知恵才覚で天下を取った武将じゃ。わしらにしてみれば海外派兵など暴挙にしかみえないが、秀吉にしてみれば、四国九州の延長線上に過ぎなかったのかもしれない。天下人のスケールなど、しょせん凡人にはわからない。

もっとも、秀吉の動機はどうあれ、この戦は朝鮮半島の人々にとっては侵略以外のなにものでもないわな。

かくして文禄・慶長の役がはじまった

名護屋城本丸跡

名護屋城本丸跡。揮毫は東郷平八郎

文禄元年(1592)、秀吉の命により名護屋から総勢15万余の大軍が朝鮮に向けて玄界灘を出発した(文禄の役)。ここから軍船が出航していく景色は、さぞや壮観だったことじゃろう。

戦の経過にはあまり立ち入らないが、釜山に上陸した日本軍は連戦連勝。あっという間に漢城を占領してしまう。この戦勝の報に気分をよくした秀吉は、明征服後の構想を披露している。

  • 後陽成天皇を北京に移し、関白は秀次とする
  • 日本の帝位は良仁親王か八条宮に継がせ、関白は羽柴秀保か宇喜多秀家とする
  • 朝鮮には羽柴秀勝宇喜多秀家、九州には小早川秀秋を置く
  • 秀吉は間も無く渡韓し、年内には北京に入城し、その後、日明交通の要衝である寧波に移る
  • 先駆衆は天竺に近い所領を与え、天竺の領土は切り取り自由とする

切り取り自由といわれてもねぇ……それはともかく、天守台跡からは壱岐対馬がみえる。ここは朝鮮、中国大陸への最前線。得意の絶頂で夢想する秀吉の姿が眼に浮かぶようじゃな。

名護屋城天主台跡

名護屋城天主台跡

戦国の世に鍛えられた日本軍は強かった。とくに鉄砲の威力は凄まじく、弓矢中心の朝鮮軍を圧倒した。じゃが、一時は勢いに乗って平壌を占領した日本軍も、明の参戦によって押し返され戦線は膠着。さらに朝鮮水軍と義勇兵が立ち上がると各地で苦戦を余儀なくされる。

立花宗茂小早川隆景らの活躍で、日本軍は碧蹄館の戦いで勝利する。じゃが、長引く戦に補給が続かなくなり、明軍にも厭戦気分が蔓延してくる。そこで両国は(朝鮮をすっ飛ばして)講和交渉を始め、日本軍は釜山まで、明軍は開城まで兵を引くことで一時休戦となる。

じゃが、この講和交渉はけっきょくまとまらなかった。慶長2年(1597)正月、両国は再び戦端を開くことになる(慶長の役)。

日本軍は文禄の役で補給が続かなくなった反省から、半島南部の沿岸に倭城を普請し、これを恒久陣地として北進する作戦をとった(久留の計)。蔚山倭城攻防戦では加藤清正らが奮闘し、明・朝鮮連合軍から大勝利を収めている。

しかし、この戦闘の最中の慶長3年8月18日、秀吉が死没してしまう。これにより「唐入り」は中止となり、日本軍に撤退命令が出される。

すべての遠征軍が帰国すると、名護屋城もその役割を終える。ちなみに秀吉が名護屋に滞在したのは延べ1年2か月であった。

名護屋城のジオラマ

名護屋城博物館にある名護屋城ジオラマ

名護屋城跡

角が切り崩され、破却された石垣

その後、この地は寺沢広高の領地となる。関ヶ原の合戦後、広高は唐津城を築城し、名護屋城の資材を利用された。

ガイドさんの説明によると、ところどころ石垣の四隅が切り崩されているのは自然に朽ちたのではなく、人為的なものらしい。なんでも、島原の乱の後、名護屋巡検した幕府の老中が、この城の堅牢さを一揆勢に利用されないように、徹底した破却が命じられたそうじゃ。

名護屋城博物館は反日

秀吉の朝鮮出兵は東アジアを大きく揺るがした一大事件であった。日本では豊臣政権崩壊の一因となったし、明もまた疲弊し、やがて女真清朝)に滅ぼされてしまう。

朝鮮に至っては国土は荒れ果て、それ以上に人心に大きな傷跡を遺した。朝鮮では「壬辰倭乱・丁酉再乱」と呼び、この戦渦は「恨(ハン )」として民族意識の中に受け継がれていく。

誰も何の得もせず、失ったものばかり。清正や宗茂、鬼島津の武勇伝はたしかに華々しいが、「はかのいかぬ戦さ」をしたものじゃよ。

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城跡の近くに名護屋城博物館が併設されている。ここでは、ありし日の壮大な名護屋城のことはもちろん、日本と朝鮮の交流の歴史が展示されている。再現CGを見ながら名護屋城跡を散策できるアプリ「バーチャル名護屋城」を提供するなど、なかなか頑張っている博物館じゃ。

ただ、じつは訪問前に「名護屋城博物館」を検索していたら、「反日」というワードがサジェストされて、ちょっと驚いた。その展示内容があまりにも韓国人に都合がよく、日本人にとって自虐的すぎるというのじゃ。

じっさいに訪れてみた感想としては、それほど酷い印象はない。ふだんあまり考える機会がない日朝交流史を通史的に学べて、たいへん勉強になった。

とはいえ、ネトウヨではないわしでも、確かに近現代の展示に「?」な内容は散見されたのは事実じゃ。

亀甲船

日本の水軍をやっつけた朝鮮水軍の新兵器「亀甲船」。ただし、その活躍はかなり怪しい。

半島を間近に感じさせる土地柄ゆえか。韓国からの旅行客を誘致するためか。少なくとも「創氏改名」は強制したものではないし、そもそも「日帝」なんて表現を多用する博物館は、日本にそうそうないじゃろう。少なくとも、わしはこんな言葉を使ったことはない。

ただ、考えようによっては、こういう展示は日本だからできるのかもしれん。韓国で日本の主張を代弁するような展示をしたら、その博物館は焼き討ちにあうこと必至じゃろう。そもそも、ここ名護屋はかつての朝鮮侵略の根拠地。そこの博物館が『日本国紀』みたいな展示をしていらた、わしはそのほうが嫌じゃな。

「長い交流の歴史の中には、友好の時代も侵略という不幸な時代もありました。私たちはその歴史を正しく認識して、お互いの文化と習慣を尊重しなければなりません。そして、率直に語り合い、よりよい友好関係を築いていこうではありませんか」

博物館にはこうしたメッセージが掲出されている。ほんとうにその通りじゃ、

じゃが、昨今の日韓合意反故、徴用工判決、レーダー照射事件など、さすがに今の韓国は、やることなすことデタラメすぎる。行き過ぎた反日教育と、それを利用する政治家は噴飯ものじゃが、やはり「壬辰倭乱・丁酉再乱」の「恨」が続いているんじゃろうか。やったほうは忘れるが、やられた方は忘れない。悲しいかな、それが現実じゃ。

とはいえ、名護屋城跡は壮観じゃし、博物館も朝鮮半島との窓口という立地を強烈に感じさせる展示で、学びがあることも確かじゃ。呼子町イカも美味じゃし、歴ヲタなら訪れる価値はあり。次回は、ぜひ陣屋も回ってみたい思う