鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の日々の備忘録。湘南ベルマーレを応援しています。

土方歳三生誕の地・日野を訪ねてみた

本日5月11日は新選組の鬼の副長・土方歳三の命日じゃ。明治2年5月11日(1869年6月20日)、箱館戦争でにおいて、土方歳三は弁天台場で孤立した新選組を救うために出撃し、一本木関門で戦死した。

高幡不動の土方歳三像

高幡不動でお会いした土方歳三さん

土方歳三生誕の地・日野市では、明日まで「ひの新選組祭り」が開催される。わしは人混みが苦手なので、すでに先週5月5日、一足先に日野に行って、墓前に手を合わせてきた。お目当ては、土方歳三資料館で期間限定公開される「和泉守兼定」じゃ。

ちなみに、5月5日(天保6年)は土方さん(←どうしても「さん」をつけないと書けない)が生まれた日。誕生日が「端午の節句」「こどもの日」というのは、土方さんにぴったりというか、ちょっと笑ってしまうけどな。

バラガキ・歳三さんが生まれ育った日野の町

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武州日野甲州街道の宿場町。新選組六番組隊長・井上源三郎(源さん!)も日野の生まれじゃ。土方家は多摩の豪農で、歳三くんは10人兄弟の末っ子。少年歳三くんは、触れると痛いイバラのような悪ガキ =「バラガキ」と呼ばれ、やんちゃをしていたらしい。

歳三くんは11歳のころ上野広小路松坂屋に奉公に出るが、バラガキにつとまるわけもなし。番頭とすぐに大喧嘩になって、家へ帰ってしまう。18歳で再び江戸の呉服屋に奉公したものの、年上の女性に手を出して、また追い返される。まあ、土方さんはとてもじゃないが商人でおさまる男ではないわな。その後は実家秘伝の「石田散薬」を行商しながら、剣術修行に励んでいたらしい。

土方さんの姉・のぶは名主の佐藤彦五郎に嫁いでいた。彦五郎は天然理心流に入門し、試衛館の近藤勇と義兄弟の契りを結んでいたという。そんな縁から、土方さんは近藤さんと出会い、以後、幕末の動乱に飛び込んでいったというわけじゃ。

石田寺で土方さんの墓前に手を合わせる

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まずは土方さんの墓所がある石田寺(せきでんじ)へ。宗派は真言宗高幡山金剛寺の末寺で、南北朝時代の開基とのこと。樹齢400年以上というカヤの大木が目印じゃ。

石田寺では毎年5月第2日曜日に「歳三忌」が開かれ、全国から土方さん推しが追悼に訪れる。この日も、うら若き乙女をたくさん見かけたぞ。ちなみに土方家の菩提寺高幡不動で、土方さんの位牌も本堂の大日堂に納められているとのことじゃ。

土方さんの墓所は、カヤの木の下に石碑と案内があるので、迷うことはない。ちなみにこの碑は明治100年を記念して建てられらしい。

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土方歳三義豊の墓。戒名は「歳進院殿誠山義豊大居士」。箱館で撮影したとされる土方さんの写真が置かれ、花が手向けてあった。わしもそっと手を合わせる。

なお、お墓にお賽銭等を置くのは染みができるためNG。お菓子などのお供えももカラスやタヌキが食べにきて汚すのでダメ。また、たくさんのファンがお参りに来るので、お線香は1本ずつとのことじゃ。

一部の心ない狼藉者がマナー違反をすると、墓所の一般公開ができなくなるので、お寺と子孫は協力を求めておられる。すでに沖田総司墓所は一般公開が禁止となった。土方さんの墓もそうならぬよう、ルールを守って墓参するようにせねばならぬぞ。

土方歳三資料館で和泉守兼定を拝見する

続いて土方歳三資料館へ。ここは土方さんの生家があった場所で、いまでも子孫の方が住んでいる。敷地内の一部に資料を展示、公開しておられるが、施設というより一般のご家庭なので、恐縮しながら門扉を通った。 

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館内は撮影不可じゃが、直筆書簡、石田散薬、天然理心流木刀、「豊玉発句集」、池田屋事件で着用した鎖帷子、八月十八日の政変時に使用した鉢金などが公開されている。

一つ一つじっくり観ていると思いの外、長居になるがやむを得んじゃろう。この日は特別に土方さんの愛刀「和泉守兼定」が公開されていることもあり、たくさんの人が訪れていた。

和泉守兼定は、武田信虎柴田勝家明智光秀ほか名だたる武将が愛用した名刀。土方さんの兼定は江戸末期の会津兼定家の名工・11代兼定によるもので、会津藩松平容保から授かった。箱館まで戦い、死を覚悟した土方さんが、遺品として実家に届けさせたという。

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土方さんの最期の佩刀について、館長で子孫の土方愛さんの説明をみんなで興味深く拝聴する。

最後まで土方さんと運命を共にした兼定の刀身にはかなりの刃こぼれがあり、激闘の様子を彷彿とさせるものだったらしい。ただ、それを放置しておくと錆が出てしまうので、修繕を施してあるそうじゃ。そのぶん、柄巻きの紐のすり減り具合はじつにリアルじゃった。

新選組副長が参謀府に用がありとすれば、斬り込みにゆくだけよ」

箱館戦争の最後の出撃で、土方さんは誰何する敵兵に馬上でそう告げて、敵陣を進んでいく。司馬遼太郎『燃えよ険』の名シーン、最後の台詞を思い出すではないか。

なお、なんとなくのイメージとして、Amazonで売っている模造刀を下に置いておく。ちなみに現地でわしが買ったお土産は、展示品の図録、豊玉発句集の日めくり、土方歳三うどん、新選組まんじゅうじゃよ。

高幡不動尊で土方さんに逢う

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最後は高幡不動尊へ。ここは関東三大不動尊の一つで年間200万人が訪れる平安時代からの古刹。土方歳三菩提寺。大日堂では毎年5月11日に法要が営まれる。

奥殿で土方さんの書簡や東照大権現の幟をみる。榎本武揚大鳥圭介勝海舟山岡鉄舟など、土方さんと交わりの深かった名士の書もあったぞ。

境内に入るとする土方歳三像と殉節両雄之碑(近藤勇土方歳三顕彰碑)がある。明治7年、明治政府はようやく戊辰戦争で戦死した旧幕府側の霊を祀ることを許可した。そこで近藤・土方両雄の殉節を顕彰する碑の建立が計画された。

じゃが、その内容は単なる慰霊が目的ではなく、賊の汚名を晴らし正義と忠節を世に讃えるものであった。そのため、なかなか許可が下りず、明治21年になってようやく竣工した。

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文の撰者は元仙台藩儒者大槻磐渓、書は幕府典医頭・医学書所長の松本順(良順)、そして篆額は松平容保によるものじゃ。

松本順は近藤さん、土方さんとはよく気が合い、新選組の屯所で隊士を診察したこともある。戊辰戦争では会津に医師として従軍し、仙台で降伏している。維新後は陸軍軍医総監をつとめたが、名を「良順」から良の字を外して「順」とあらためるなど、気骨のある医師じゃった。

はじめ松本は篆額を徳川慶喜に依頼した。じゃが、慶喜は何度も書面に目を通すが、ただ黙って涙を流すばかりだったという。けっきょく、はっきりした返事を受けられぬまま、松本は松平容保に篆額を依頼する。

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碑文を読み込むことはわしのしょぼい漢文の知識ではとても無理。じゃが、日野市のWebサイトによれば、そこには土方さんの心情として、こんな記述が刻まれているらしい。

唯死あるのみ。即ち寛典に処すとも吾何の面目あって、また昌宜と地下にまみえんや

……慶喜じゃなくても、これは泣ける。

土方さんが箱館まで戦い続けた理由がわかった気がしたよ。土方さん人気の理由は、ただイケメンで格好いいというだけではないということじゃな。