鎌倉ではたらく太守のブログ

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遠の朝廷(みかど)・大宰府政庁趾に行ってきたよ

「遠の朝廷(みかど)」こと大宰府政庁趾を訪問したので、備忘録がわりに書き散らすぞ。 

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太宰府とは

大宰府といえば九州における外交・軍事の最前線となった役所。西海道9国(筑前筑後豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)と三島(壱岐対馬、多禰)を統括し、行政・司法を所管。『万葉集』には「遠の朝廷(みかど)」と詠まれておる。

政庁跡には、往時をしのばせる礎石や築地塀の趾が残っておった。ちなみに現地では、この史跡を「都府楼跡」(とふろうあと)と読んでおるが、これは唐名の「都督府」からきておるんじゃろう。 

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「大宰」の文字の初見は推古天皇17年(609)。じゃが、『日本書紀宣化天皇元年(536)条にはこうある。

夫れ筑紫国は、とおくちかく朝で届る所、未来(ゆきき)の関門にする所なり

官家を那津(なのつ、現在の博多)の口に脩(つく)り造てよ

玄界灘沿岸は大陸との交通の要衝。この近辺はヤマト政権の時代から超重要拠点だったことは間違いない。

白村江の戦い太宰府政庁

国際的な緊張感が一気に高まったのは天智天皇の時代。白村江の戦いで日本は唐・新羅連合軍に大敗し、そのため、唐が日本へ攻め込んでくるのではないかとの危機感が高まった。

天智朝は対馬壱岐、筑紫の沿岸に防人を配し、烽を置いた。また、海沿いの那津官家を太宰府に移し、政庁を守るように水城、大野城などの城堡を建設して、有事に備えたのじゃ。

ちなみに、こちらが、大宰府へ行く途中にわしが立ち寄った水城趾。説明書がなければ単なる土手にしか見えないけど、とりあえずあげておくぞ。

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幸い唐・新羅の侵攻はなかったものの、この地域が外交・軍事面における重要拠点であることには変わりはない。以後、中央から官吏が大宰帥として送り込まれてくる。「令和」所縁の梅花の宴を催した大伴多人もその一人じゃよ。 

藤原広嗣、菅原道眞、藤原隆家

大宰府の面積は約25万4000平方メートル、その規模は平城京平安京に次ぐ大きなもので、南北22条東西24坊の都市計画があったらしい。ここを抑えることは政治的にも重要で、藤原広嗣の乱藤原純友の乱では、この地が争乱の舞台となっている。

大宰府は度々の戦乱で焼失した。現在でも、表土の60センチほど掘ると、平安時代の焼土が出てくるらしいぞ。

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9世紀以降、大宰帥には親王が任官されるようになり、中央からは赴任しないことが慣例となった。そのかわりに実権を握ったのが大宰権帥大宰大弐じゃが、そのポストはしばしば都で失脚した貴族の左遷先ともなった。

怨霊となった菅原道真はつとに有名じゃな。

東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

道真が京を旅立つときに詠んだ歌じゃ。やはり都落ちは無念だったんじゃろうな。

大宰府へ赴任した道真を追って、京の邸宅に植えられていた梅が飛んでいったという「飛梅」伝説も有名で、その梅は太宰府天満宮の神木となっている。

寛仁3年(1019)には女真族が来襲、刀伊の入寇じゃ。夷狄は壱岐対馬を蹂躙し、筑前に侵攻した。幸い、大宰権帥には天下のさがな者・藤原隆家が赴任しており、撃退に成功したが、太平に慣れた貴族たちを大いに驚かせる事件となった。

武家政権太宰府

その後、太宰府では次第に在庁官人に権限が移っていく。保元年間には、平清盛・重盛が大宰大弐に任官するが、現地では家人の原田種直大宰少弐として辣腕をふるった。

原田種直日宋貿易の代行者となると同時に、平氏政権の鎮西支配の一翼を担う。都落ちした平家一門を大宰府に迎えて源範頼殿と戦ったが、壇ノ浦の戦いの後、源氏に降っている。

かわって台頭してきたのが少弐氏じゃ。少弐氏のはじまりは藤原北家の流れを組む武藤資頼。はじめ平知盛に仕えていたが、一ノ谷の戦いで源氏に降ると、頼朝公の信頼を得る。その後、資頼は大宰小弐に任官し、北九州諸国の守護を務め、鎮西奉行にも就任。さらに資頼の子・資能の代からは「少弐」を姓とし、以後はこの地の武家のリーダー格として興隆していくわけじゃ。

ちなみに、少弐資能は蒙古の使者の対応にもあたり、文永・弘安の役では老骨に鞭打って出陣しておる。その後、鎮西探題が博多に置かれると、少弐はその配下に置かれるが、後醍醐天皇が兵を挙げ、鎌倉が陥落すると、少弐貞経鎮西探題を攻め滅ぼしている。

その件については、大して面白い内容ではないが、こちらに書いたので、お暇なら読んでもらうとして……英時、すまぬ。わしが不甲斐ないばかりに。

鎌倉末には、大宰府は有名無実の存在となってしまった。じゃが、この地が重要拠点であり、政治的、シンボル的位置付けは変わらない。じっさい、その後の南北朝の騒乱では、この地をめぐる激しい争奪戦が繰り広げられたわけじゃが、それはまたあらためて。

とりあえずは太宰府の歴史の備忘録。なお、さだまさしさんの「都府楼」をはっておくぞ。

都府楼

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