鎌倉ではたらく太守のブログ

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九州の南北朝激突!筑後川の戦い跡を訪ねてきた(頼山陽の漢詩超訳付)

鳥栖に遠征の途中、近くに九州南北朝関係の史跡・大保原(大原)合戦場の跡があることを知り、急遽立ち寄ってみた。場所は西鉄小郡駅の下車、市役所のすぐ隣じゃ。 

大保原古戦場跡(福岡県小郡市)

大保原古戦場跡(福岡県小郡市

征西大将軍懐良親王

ここで九州南北朝史の主役・懐良親王についておさらいしておこう。懐良親王後醍醐天皇の皇子。南朝征西大将軍として、肥後国隈府を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝全盛期を築いた親王様じゃよ。

懐良親王

懐良親王(『前賢故実Wikipedia

鎌倉を滅ぼした後醍醐天皇じゃったが、建武の新政はすこぶる評判が悪く、足利尊氏の離反であっけなく瓦解する。そこで後醍醐天皇は吉野へ逃れ、諸国に皇子を送り込んで劣勢を挽回しようとする。このとき征西大将軍として九州に派遣されたのが懐良親王で、当時はまだ8歳じゃ。

懐良親王伊予国忽那島へ渡り、その後、薩摩に上陸。北朝・足利方の島津貞久と対峙しつつ、九州の諸豪族の勧誘に努める。そして肥後の菊池武光阿蘇惟時を味方につけると、隈府城に入って征西府を開く。この頃、足利幕府は博多に一色範氏仁木義長を派遣しており、征西府はこれらと攻防を繰り返すことになる。

足利尊氏と直義による内紛「観応の擾乱」が起こると、直義の養子となった足利直冬が九州へやってきた。これを筑前少弐頼尚が支援したため、九州は幕府、直冬、征西府の鼎立状態となった。

じゃが、足利直義が尊氏に殺害されると、直冬は長門に去る。一色範氏少弐頼尚太宰府に攻め、あわてた頼尚は菊池武光に救援を求めた。頼尚は起請文まで書いて帰順を誓っている。

「今より後、子孫七代に至るまで、菊地の人々に向けて弓を引き放つこと有るべからず」(「太平記)」

こうして針摺原の戦いが起こり、征西府は一色軍に大勝する。そして豊後の大友氏泰を破り、九州探題一色範氏は九州から逃れた。

筑後川の戦い

じゃが、一色範氏が去ると、少弐頼尚は舌の根も乾かぬうちに幕府方に転じてしまう。そもそも頼尚は九州探題の支配に抵抗しただけで、宮方に与する気などさらさらなかったんじゃな。

延文4年/正平14年(1359)、懐良親王筑前へ侵攻し、決戦を挑む。こうして筑後川の戦い(大保原の戦い)が始まるのじゃ。

大保原古戦場跡碑

懐良親王菊池武光ら征西府軍4万は筑後川畔に陣を張り、少弐頼尚・直資の父子、大友氏時、城井冬綱ら6万の幕府軍と対峙する。このとき、少弐頼尚が本陣としたのが、大保原古戦場碑が建っているこのあたりらしい。

「情けなし、頼尚の心変わりよ」

菊池武光はさきの起請文を旗に掲げ、頼尚の不義理をなじったと伝えられている。

そして菊池軍は兵の一部を搦め手へ迂回させ、主力は三方から少弐軍に攻め込んだ。激戦は丸1日続き、少弐は大宰府へ撤退する。このとき、幕府軍の少弐直資は戦死、征西府軍も懐良親王菊池武光が負傷し、両軍合わせて4,800余人が討死にした。

この勝利により、征西府は太宰府を制圧。九州は南朝の勢力下に入ることとなった。

大原合戦

現地に大原合戦の説明図があった。メンテがほとんどなされていないのでところどころ消えかかっているが、征西府軍が機動力を発揮して幕府軍を打ち破った様子はなんとなくわかるぞ。

頼山陽の長詩

戦いの結果は征西府軍の勝利となった。じゃが、戦は大激戦で、平野を舞台に短時日でこれだけの戦死傷者を出した例は歴史上も稀であり、本来であればもっと知られていてもよさそうなものではある。

筑後川を下り、菊池正観公の戦いし処を過ぎ、感じて作るあり

その苛烈さは、後年、この地を訪ねた頼山陽が詩にしておる。ちょっと超訳してみよう。 

文政の元 十一月、吾 筑水を下って舟筏を雇う。
水流箭(や)の如く万雷吼ゆ。
之を過ぐれば人をして毛髪を竪たしむ。

文政元年11月、船を雇って筑後川を下った。水の流れは矢のように速く、まるで雷鳴のようだ。ここを通る人は、恐ろしくて髪の毛が逆立つことだろう。

居民何ぞ記せん正平の際、行客長(とこしえ)に思う己亥の歳。

当時の国賊鴟張(しちょう)を擅(ほしいまま)にし、七道風を望んで豺狼を助く。
勤王の諸将は前後に没し、西陲僅かに存す臣武光。
遺詔哀痛猶耳に在り、龍種を擁護して生死を同じうせん。
大挙来たり犯す彼何人ぞ、誓って之を剪滅して天子に報いん。

地元の人は知らないようだが、わたしは正平14年己亥の年の筑後川の戦いを思い浮かべている。

国賊足利尊氏は権勢をほしいままに、国じゅうの者が従っていた。勤王の諸将はすでに亡くなり、残ったのは九州の菊池武光だけだ。武光は先帝の哀痛な遺詔が今も耳に残り、懐良親王を守護して生死を共にする覚悟であった。そこへ大挙して攻めてくる奴らがいる。必ず奴らを殲滅し、天子様に報いよう。

菊池武光像

菊池武光像(Wikipedia)

河は軍声を乱して銜枚に代り、刀戟相摩す八千の師。
馬傷つき兜破れて気益々奮う、敵を斬り兜を取り馬を奪って騎る。
箭を被ること蝟の如く目皆裂く、六万の賊軍終に挫折す。

軍馬は川を渡り、吶喊の声。もはや馬に枚をかませ、敵に気づかれないようにする必要もない。進め! 進め! 8千の我が兵は突撃して大激戦。馬は傷つき、兜は破れても臆することはない。戦意は益々充実。斬り捨てた敵の兜をかぶり、馬を奪ってひたすら戦う。矢で全身がハリネズミのようになり、怒りでまなじりが裂けんばかりの奮闘により、ついに6万の賊は敗れ去った。

帰来河水に笑って刀を洗えば血は奔湍に迸って紅雪を噴く。

戦場を離れた武光が笑顔で刀の血塗りを川水で洗うと、鮮血がほとばしり、まるで赤い雪が吹き散るようであった。

四世の全節誰か儔侶(ちゅうりょ)せん、九国逡巡す西征府。
棣萼(いかく)未だ肯て北風に向かわず、殉国の剣は乃父より伝う。

嗚呼、菊池四代(武時、武光、武政、武朝)の忠節は史上何人も肩を並べる者などいない。かくして九州の諸将は征西府に従った。菊池兄弟は心を一にして南朝を死守し、一族で北朝(北風)になびく者は一人もいなかった。この殉忠の剣は父・武時から受け継いだものである。

嘗て明使を卻(しりぞ)けて本朝を壮にす、豈に共献と同日に語らんや。
丈夫要は順逆を知るを貴ぶ、少弐大友何の狗鼠ぞ。

かつて明国の使いが征西府に国書をもたらしたとき、武光はこれを追放し、日本の矜持をみせつけた。明国から「恭献王」に任ぜられて喜んだ足利義満と同日の談で語ることなどできはしない。日本の益荒男は順逆を知るを尊ぶ。少弐や大友なんぞ、まさにクソ(狗鼠)だ。

河流滔々去って還らず、遥かに望む肥嶺の南雲に嚮うを。
千載の姦党骨亦朽ち、独り苦節の芳芬を伝うる有り。
聊か鬼雄を弔うて長句を歌えば、猶覚ゆ河声の余怒を激するを。

川は滔々と流れ、再び帰ることはない。遥かに肥後の山々を雲間に臨めば、菊地一族の忠節が万感胸に迫るではないか。

歳月を経て、姦賊どもは骨の髄まで朽ち果てた。だが菊池の至誠は今なお語り継がれ、かぐわしい芳香を放っている。ここに英霊を弔い、一篇の長詩を吟ずれば、筑後川の激流に、武光の義憤が聞こえるかのようだ。

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足利は国賊。少弐大友はクソwww  けちょんけちょんに言われておるな。まあ、水戸学の価値観が支配的だったこの時代、頼山陽にとってみれば、足利尊氏は大逆の叛臣じゃから、こうなるわな。

ちなみに、この歌にある菊池武光が血塗りの太刀を洗った川は「大刀洗川」と名付けられたそうじゃ。その他にも、このあたりには宮の陣、大保、前伏、高見下など、合戦に関連する地名が残されていて、南北朝ヲタにはちょっと胸熱じゃな。

大中臣神社の「将軍藤」

大保原古戦場跡を後にして大中臣神社へ。この神社の境内には、県指定天然記念物で樹齢約600年の藤があり、将軍藤と呼ばれている。大保原合戦で負傷した懐良親王は、大中臣神社に快癒を祈り、その御礼に藤の木を奉納されたと伝えられている。

この日はちょうど、藤祭りをやっていて、地元の方が周囲で宴会の準備をしておったぞ。ざんねんながら、藤はまだ見頃には早いようじゃったがな。

大中臣神社

大中臣神社

懐良親王菊池武光については、いずれまた機会をあらためて書こうと思うが、ここは五条頼元という人物に注目したい。

五条頼元は建武の新政が瓦解すると、そのまま北朝に仕えた。じゃが、なぜか南朝に転向し、懐良親王とともに九州へ下向している。

懐良親王はまだ幼い。10歳にも満たない。武力動員も親王の教育も頼元の役割。頼れるものは権威だけ。ひたすらに令旨を書く。その苦労は並大抵ではなかったじゃろう。縁の下の功労者じゃ。

頼元は京へ戻ることなく筑前国で没する。子孫はそのまま土着し、大友氏、さらには加藤清正立花宗茂に仕えたらしい。

この日は、頼山陽気分で筑後川畔をゆっくり歩いてみたかったが、鳥栖戦のキックオフが近づいたので断念。北方謙三さんの『武王の門』 (新潮文庫)を読みたくなったぞ。

いずれ菊池、八女にも訪れてみたいものじゃ。