鎌倉ではたらく太守のブログ

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一億総特攻の魁、戦艦大和の最期・坊ノ岬沖海戦のこと

昭和20(1945)年4月7日、九州坊ノ岬沖で大和が沈没。伊藤整一海軍大将(当時中将)、有賀幸作艦長以下、乗員4000人の命が散華した。大和ミュージアム訪問記の備忘録として、今日は戦艦大和の最後についてじゃよ。

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伊藤整一大将について

伊藤整一は明治23年(1890)福岡県三池郡高田町の生まれ。海軍兵学校39期を15番で卒業した。その後、駐在武官としてアメリカに滞在したが、その時、レイモンド・スプルーアンスと親交を結んでいる。スプールアンスは、後に坊ノ岬沖海戦でアメリカ軍の指揮をとっており、不思議な因縁を感じるのう。

戦艦「榛名」などの艦長を務めた後、第二艦隊参謀長、 海軍省人事局長などをつとめ、開戦前の昭和16年9月、海軍統帥ナンバー2のポスト・軍令部次長に就任する。当時、少将だった伊藤が軍令部次長というのはかなりの抜擢人事じゃったが、ここにには山本五十六ら知米派の思惑が働いたという。

アメリカの実力をよく知る伊藤もまた、日米開戦には反対だった。じゃが、伊藤の思惑とは反対に、日本はけっきょアメリカとの戦争を始めてしまう。予想通り、帝国海軍はミッドウェーの敗戦以後、坂道を転げ落ちていく。

伊藤が第二艦隊司令長官となったのはレイテ沖で連合艦隊が事実上壊滅した後の昭和19年12月。そしてアメリカ軍が沖縄に迫り、昭和20年4月8日、運命の日を迎えるのじゃ。

伊藤整一海軍大将

伊藤整一海軍大将

天一号作戦」発令の経緯

かくして4月5日、大和に沖縄方面航空作戦「天一号作戦」が発令された。この作戦は、大和以下の艦隊は沖縄に突入し、艦を座礁させて浮き砲台として砲撃を行い、砲弾が尽きれば乗組員は陸戦隊として突撃せよ、というものじゃった。じゃが、航空作戦とはいうものの、長い道中、大和を護衛する航空機はない。しかも、生還を期すことのない特攻攻撃なので、燃料はもちろん片道分である。

【電令作603号】(発信時刻13時59分)
第一遊撃部隊(大和、二水戦〈矢矧及駆逐艦六隻〉ハ海上特攻隊トシテ八日黎明沖縄ニ突入ヲ目途トシ、急遽出撃準備ヲ完成スベシ。

【電令作607号】(発信時刻15時)
一、帝国海軍部隊及第六航空軍ハX日全力ヲ挙ゲテ沖縄周辺艦船ヲ攻撃撃滅セントス
二、陸軍第八飛行師団ハ右ニ協力攻撃ヲ実施ス 第三十二軍ハ七日ヨリ総攻撃ヲ開始 敵陸上部隊ノ掃滅ヲ企図ス
三 海上特攻隊ハH日黎明豊後水道出撃 Y日黎明時沖縄西方海面ニ突入 敵水上艦艇竝ニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ Y日ヲ八日トス

そもそも沖縄戦に関しては、陸軍と海軍で考え方の相違があった。陸軍は沖縄戦を本土決戦を見据えた持久戦と考えた。じゃが、海軍の立場からすれば、沖縄を失えば本土決戦にはもはや出る幕はない。沖縄防衛は本土防衛のための最終決戦と位置付けていたわけじゃ。

じゃが、いくら大和でも、すでにアメリカ軍の制空下にある海域を、航空機の援護なしに特攻していくことが無謀なことは、誰もが承知していた。ただ、大本営連合艦隊司令部内には「戦わずに沈められるより、戦って沈んだ方がよい」という考えもあった。

なにより、沖縄の危機に手をこまねいているだけでよいのか、という思いもあったじゃろう。軍令部総長の及川古志郎は、昭和天皇より「航空部隊だけの攻撃か。海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか」とご下問があり、このことも影響したかもしれない。及川はこのとき、「海軍の全力を投じて作戦を行う」と発言したとされる。

豊田副武

最後の連合艦隊司令長官豊田副武

連合艦隊司令長官豊田副武は、この水上特攻作戦について「大和を有効に使う方法として計画。成功率は半分もなし。うまくいったら奇跡。しかしまだ働けるものを使わず残しては、現地将兵を見殺しにする。だが勝ち目のない作戦で大きな犠牲を払うのも大変苦痛。しかし多少の成功の算あれば、できることはなんでもやらねばならぬ」という気持ちで決定したと回想している。

反対していた者も、大和を生かす代案があるわけでもなし。かくして、大和特攻が決定したというわけじゃ。こうした非合理な意思決定は、現代の組織でもよくある。当事者としては「仕方がなかった」となり、最後は「美学」というところに行き着いてしまう。もちろん、そこには私心や名誉欲も絡んでくるじゃろう。

三者的にみれば、じつに馬鹿げた話なんじゃが、当事者にとっては真剣ゆえ、そんな簡単な話ではない。少なくとも、このとき、大和を温存したとなれば、それはそれで後世、非難轟々だったじゃろう。ここで最適解を導き出すのは、並のリーダーでは絶対に無理じゃ。

一億総特攻の魁となって…

これに先立ち、第二艦隊司令部では、もはや出撃しても戦果は期待できないため、「兵器弾薬、人員を可能な限り揚陸し、戦艦は浮き砲台として活用する」という方針を打ち出し、上表しようとしていた。現場は冷静に判断していたんじゃな。

そんな矢先の水上特攻の命令じゃ。伊藤をはじめ、現場の指揮官たちはこれに猛反発した。10隻の艦船と7000人もの乗組員の命を奪う自殺行為じゃからな。当然である。

大和の指揮官たち。前列左から3番目が伊藤整一(Wikipedia)

大和の指揮官たち。前列左から3番目が伊藤整一(Wikipedia)

現場の説得役を担わされたのは、参謀長・草鹿龍之介と作戦参謀・三上作夫の2人だった。草鹿は海軍兵学校で伊藤の3年後輩。じつは草鹿は沖縄特攻を頭越しに決められてしまっており、いわば貧乏くじを引かされた格好じゃった。

会議で、草鹿は猛攻撃を受けた。

「我々は命は惜しまぬ。だが帝国海軍の名を惜しむ。連合艦隊の最後の一戦が自殺行であることは、絶対に我慢がならぬ」朝霜艦長・杉原与四郎は激怒した。

指揮官たちの反発する声を、草鹿参謀長は黙って聞いていた。その後、会議は一度散会し、その後再開されたが、この時、草鹿は、この命令がすでに決定事項であることを告げる。そして、あらためて「一億総特攻の魁となっていただきたい」と懇願した。草鹿は剣術の達人でもあったというから、このあたりは理屈ではない。絶妙のタイミングで殺し文句が出たんじゃろう。

「そうか、それならわかった」これを聞いた伊藤は腹を決めた。「我々は死に場所を与えられた」という伊藤の言葉に、それ以上は誰も何も言えなかった。ただ、大和艦長の有賀幸作が、「わかっている、わかっている」とでもいうように、太った腹をポンポンと叩き、ニコニコ笑ったという。

後年、「(伊藤は)何かにつけて下級生をかばう良き先輩であり、訣別の辞を伝えにいかなくてはならぬ破目になったことは皮肉な巡り合わせだった」「第二艦隊の空気は最初沈滞気味なりしが伊藤二艦隊長官の訓示にて其の気になりたり」と述懐している。

なお、このあと、大和、矢矧の乗組員のうち、少尉候補生全員と補充兵、傷病兵が退艦した。前途ある若者をこの無謀な戦いに巻き込まないための配慮じゃろう。

映画「男たちの大和」

映画「男たちの大和

ちなみに、このシーンは映画「男たちの大和」にもあったけど、有賀艦長のポンポンがなかったのはいかにも残念。もう少し、きっちり描いて欲しかったけど、これはまあ、仕方ないか。渡哲也さんの伊藤誠一はなかなかの好演じゃったけどな。

大和出撃。連合艦隊最期の戦いへ

伊藤は、麾下の艦艇に出撃にあたっての訓示を発した。

神機将ニ動カントス。皇国ノ隆替繋リテ此ノ一挙ニ存ス。各員奮戦激闘会敵ヲ必滅シ以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ

15時20分、大和以下、第二艦隊は徳山沖を出撃した。艦隊編成はこちら。

このとき駆逐艦「磯風」は、負け戦を覚悟で湊川に出陣した楠木正成の故事に倣い、楠木家の家紋「菊水」を舷側に描いていた。決死の覚悟である。

大和甲板では総員が集合し、「各自の故郷に向かって挨拶せよ」との命令が出た。ここも「男たちの大和」にあった。じつに辛い場面である。

映画「男たちの大和」

映画「男たちの大和

連合艦隊長官である豊田副武からも電報で第二艦隊に対する訓示があった。

帝国海軍部隊は陸軍と協力、空海陸の全力を挙げて沖縄島周辺の敵艦隊に対する総攻撃を決行せんとす。皇国の興廃は正に此の一撃に在り、茲に特に海上特攻隊を編成壮烈無比の突入作戦を命じたるは帝国海軍力を此の一戦に結集し、光輝ある帝国海軍海上部隊の伝統を発揚すると共に其の栄光を後昆に伝へんとするに外ならず、各隊は其の特攻隊たると否とを問わず愈々殊死奮戦敵艦隊を随所に殲滅し以て皇国無窮の礎を確立すべし

これを知った海上護衛総司令部参謀・大井篤は、「国を挙げての戦争に、水上部隊の伝統がなんだ!水上部隊の栄光がなんだ!馬鹿野郎!」と吐き捨てたという。

また、駆逐艦初霜の艦長・酒匂雅三も、「連合艦隊司令長官がなぜ陣頭指揮をしないのか」と豊田副武を公然と批判したと伝わっている。

安全なところから訓示しているだけのトップに、こうした不信、不快を抱くのは、現場としては当然じゃろう。  

艦隊決戦を考えていたスプール・アンス

徳山沖を出航し、豊後水道を超え、九州西岸を通り、大和は7日午前6時、大隅半島を通過して外洋へ出た。この間、アメリカ軍の潜水艦は大和の出撃を探知し、アメリカ第5艦隊に通報している。

レイモンド・エイムズ・スプルーアンス

レイモンド・エイムズ・スプルーアンス

アメリカ第5艦隊司令長官として出征していたスプールアンスは、東郷平八郎を尊敬していたらしい。かつて戦艦「アイオワ」にのり横須賀に入港したとき、スプールアンスはじっさいに東郷にも会っている。

大和との開戦に臨んで、スプール・アンスはあえて艦隊決戦を望んだとされる。

「戦いには計算も重要だが、もうひとつ、名誉という要素も加わる」

「”ヤマト”は世界一の大艦である。私は尊敬するトーゴーが育てた日本海軍の誇りを、トーゴ ー・スタイルで葬ることがトーゴーの霊にたいする手向けであり、日本海軍の名誉ある最後にもなると思う。だか ら”ヤマト”は飛行機では沈めたくない」

スプール・アンスは伊藤が大和に乗っていることを当然、知っておったじゃろう。まさにこれぞ「武士道精神」じゃな。

結果的に大和はミッチャー中将率いる第58機動部隊の航空機に発見され、艦隊決戦はならなかった。

ミッチャーはスプルーアンスに、第二艦隊の攻撃を「貴官がやられますか? それともこちらでやりますか?」と問うている。するとスプルーアンスは、「貴官が奴らをやれ」(You Take Them)と伝えている。

これはアメリカ海軍史上最も短い作戦命令とされるが、ここに坊ノ岬沖海戦が始まるのじゃ。

坊ノ岬沖海戦、大和沈没

7日12時32分、大和への第1波攻撃が始まった。連合艦隊は大和を中心に、矢矧、磯風、初霜、冬月が輪陣形を組んでいたが、敵機攻撃への回避行動で、陣形はすぐに崩れた。敵機は大和左舷に攻撃を集中した。艦のバランスを崩し、転覆を狙ったものじゃ。

坊ノ岬沖海戦

米軍の攻撃にさらされる大和(Wikipedia)

13時20分から14時15分の間にかけて第2波、第3波の攻撃隊が続けざまに行われた。米軍のほとんどの攻撃は大和に集中する。機関の損傷と大量の注水で大和の速力は落ち、敵航空機の格好の餌食となった。

この戦いで、大和は高角砲や機銃などの対空火器で反撃したが、自慢の主砲は一発も火を吹かなかった。そして、ヨークタウンからの雷撃隊による右舷への魚雷が致命傷となり、大和は急速に傾いていく。

伊藤は大和の沈没が避けられないことを知り、特攻作戦の中止と総員の退避を命じた。そして自身は大和と運命を共にすべく、艦橋下の長官室に残った。また艦長の有賀も退艦を拒否し、大和に残った。

かくして14時23分、「不沈艦」と呼ばれた大和は完全に転覆し、大爆発を起こす。大和の沈没地点は北緯30度43分東経128度04分である。

この海戦で、矢矧、浜風、磯風、霞、朝霧が沈没し、涼月は大破。戦死者は4037名、大和の生存者は269名だった。

大爆発を起こし、沈没した大和

大爆発を起こし、沈没した大和

伊藤整一大将が妻に宛てた遺書 

出撃にあたり、伊藤は愛妻家で、残される妻に手紙(遺書)をしたためていた。大和ミュージアムにもこの手紙が展示されていたが(撮影禁止)、さすがに涙無くしては読めなかったぞ。

此の度は光栄ある任務を与えられ、勇躍出撃、必成を期し致死奮戦、皇恩の万分の一に報いる覚悟に御座候
此の期に臨み、顧みるとわれら二人の過去は幸福に満てるものにして、また私は武人として重大なる覚悟をなさんとする時、親愛なるお前様に後事を託して何ら憂いなきは、此の上もなき仕合せと衷心より感謝致候
お前様は私の今の心境をよく御了解になるべく、私が最後まで喜んでいたと思われなば、お前様の余生の淋しさを幾分にもやわらげることと存じ候
心からお前様の幸福を祈りつつ 四月五日
いとしき 最愛のちとせ殿

この日、第五航空艦隊司令長官・宇垣纏は、出撃する第二艦隊に対し、途中まで護衛戦闘機隊を出撃させた。その中に、伊藤の長男・叡(まもる)が搭乗する零式艦上戦闘機も含まれていた。

叡は父親の最期の出撃を空から見送ったというわけじゃな。そして叡もまた、4月28日の沖縄海域での特攻で戦死してしまう。残された遺族の心中は察するに余りある。

じゃが、この時代、こうした悲しみはどこの家族にもふつうにおこっていたわけで、やはり戦はダメじゃと、あらためて思う。「百年兵を養うことは何のためか。ただ平和のためである」この言葉を忘れてはならぬぞ。

この海戦の日、後に戦争の幕引きを担う鈴木貫太郎内閣が誕生している。その親任式のあと、鈴木首相は控え室で大和の沈没を知らされた。そして、この作戦から4ヶ月余り後、日本は終戦を迎えることになる。 

進歩のない者は決して勝たない

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大和ミュージアムには、この沖縄特攻作戦の戦死者の名簿とともに、副砲射撃指揮官として戦死した臼渕馨大尉の言葉がパネルに掲げられていた。

進歩のない者は決して勝たない。負けて目ざめることが最上の道だ。
日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。
私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた。
敗れて目ざめる、それ以外にどうして日本が救われるか。
今目覚めずしていつ救われるか。
俺たちはその先導になるのだ。
日本の新生にさきがけて散る。まさに本望じゃないか。
吉田満著『戦艦大和ノ最期 』より)

どう考えても無謀な特攻作戦への出撃に際し、動揺する士官達に語った言葉だというが、日本はなぜ、先の大戦に敗れたのか。その答えがこの言葉に端的に表されているようじゃな。

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いろいろと書いているうちに、どうもにもこうにもいたたまれない気分になってきた。

本来、海軍の戦いというのは合理性のかたまりでなければならない。陸軍の歩兵は大和魂で動くかもしれぬが、艦船は精神主義では動かぬからな。それなのに、負けることが明白な戦いに無策で突っ込んでいく羽目になったことは残念でならない。

そもそも、海軍はなぜ、最後まで対米戦争に反対しなかったんじゃろうか。

山本五十六近衛文麿首相に対して「それは是非やれとなれば半年か1年は大いに暴れてみせる」といったとか。もちろん、そのあと「2年3年となると全く確信はもてぬ」とも言っているが、はっきり「負けます」と言わなかったのはどうなんじゃ? 近衛に、日露戦争のときみたいに、とりあえず半年戦争して和議にすればいいや、と思わせただけではないのか。

軍人はそんなことはいえない。決めるのは政治だということかもしれぬが、では、なぜ、及川古志郎海軍大臣は、御前会議ではっきり「負けます」と言わなかったんじゃ? 海軍大臣は政治家じゃよな。

陸軍悪玉海軍善玉論など、もはや嘘なことは明白じゃが、 海軍の羊頭狗肉こそ、もっと問題にすべきではないのかと、わしは思うぞ。日米開戦に至る経緯は、もちろんルーズベルトにむかっとすること大なりなんじゃが、それを差し引いても釈然としないんじゃ。

そもそも海軍はミッドウェーの敗戦すら、東条英機首相にちゃんと詳細を話していなかったという話もある。

ちょっと、話題がそれてきてしもうた。今日はもう、やめておこう。