鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の日々の備忘録。湘南ベルマーレを応援しています。

忠狂・星恂太郎と仙台藩額兵隊を偲んで

ユアスタ遠征にあたり、仙台戊辰戦史所縁の地を歩いてみたシリーズ。まずは市内の清浄光院で、額兵隊隊長・星恂太郎のお墓に手を合わせてきた。

  星恂太郎

星恂太郎

忠狂・星恂太郎生まれる

清浄光院は、寛文16年(1676)に4代藩主綱村により、念仏回向道場として建立された。本尊は阿弥陀如来、仙台三回向寺の1つで発祥寺と言われている。かつては仙台東照宮別当寺院だった仙岳院の末寺で、3年を一千日として、一万日毎に供養塔を建てていたことから、俗に「万日堂」と呼ばれるようになった。

星家は代々仙台東照宮六供を歴任した家。そんな縁から、ここ清浄光院に恂太郎のお墓があるのじゃろう。門をくぐると左手に、「星恂太郎碑」と刻印された石碑がひっそりと建っている。ちなみに題額は榎本武揚によるものだそうじゃ。

星恂太郎の墓(仙台市、清浄光院)

星恂太郎の墓(仙台市、清浄光院)

天保11年、星恂太郎は東照宮宮司星道榮の息子として生まれた。恂太郎は生来激しい性格で喧嘩早く、とても家督は継げまいと、藩の台所人・小島友治の養子に出されている。じゃが、恂太郎は大人しく料理人に収まるような男ではなかった。「包丁ではなく剣で忠義を貫いてみせる!」と、無断で生家に戻ってしまうのじゃ。

城下の人たちは口々に「あれは狂人恂太郎」と嘲笑したが、恂太郎はむしろそれを面白がって「恂太郎忠狂」と自称し、武芸を磨いたという。

仙台東照宮

仙台東照宮

ただ、そんなキャラじゃから、恂太郎はすぐに流行りの過激尊王攘夷に染まってしまう。実際、一時は、仙台藩で開国論を主張する家老・但木土佐の暗殺を企てたりもしているらしい。じゃが、大槻磐渓に世界情勢への蒙を開かれると一転して脱藩し、江戸に修行に出てゆく。このあたり、いかにも恂太郎らしい。ちなみに、そんな恂太郎を資金面で援助したのが、じつは但木土佐である。恂太郎は心底但木に感謝したことじゃろう。

はじめ恂太郎は江戸で銃隊編成訓練を学ぶ。その後は横浜に赴き、アメリカの貿易商人・ヴァンリードの店で使用人として働きながら、夜は西洋砲兵術を学んだ。ちなみに、仙台藩からアメリカに留学する高橋是清らの面倒を見たのもヴァンリードじゃが、紹介したのは恂太郎である。もっとも、この後、ヴァンリードは学費や滞在費用を着服し、是清は奴隷に売られるなど、酷い目にあったと述懐している。

額兵隊結成、箱館戦争を戦い抜く 

鳥羽伏見の戦いの後、仙台藩は奥羽列藩同盟を主導し、装備の近代化を急いだ。洋式部隊の編制にあたり、白羽の矢が立ったのが恂太郎じゃ。但木は恂太郎を仙台に呼び戻し、額兵隊を組織させる。恂太郎もまた、意気に感じたことじゃろう。

額兵隊は元込め式のスナイドル銃を装備し、イギリス式調練を受けた仙台藩の精鋭部隊じゃった。隊員は家中の次男、三男から募り、6個小隊編成で総員約800名。士官隊の他、四斤施線式砲2門、榴弾砲1門、砲兵や工兵だけでなく、軍楽隊まで編成されていた。また、イギリス軍に倣って赤黒リバーシブルのラシャ製の軍服を着用するなど、ハイカラな軍隊じゃった。

じゃが、仙台では額兵隊に活躍の機会はなかった。温存されたのか、調練が間に合わなかったのか、それはわからない。じゃが、米沢藩は降伏し、会津は落城間近、藩境に新政府軍が迫り来る中、仙台藩は早々に降伏を決めてしまう。白河城、平潟あたりに投入しておれば……などと、わしなどは思ってしまうが、ちょっと勿体無い気もする。

もちろん、苛烈な恂太郎が戦わずして矛を収めるはずもなし。額兵隊は勝手に相馬口へと南下し、相馬中村城を占領してしまう。じゃが、藩主伊達慶邦自らの説得により、恂太郎は仙台で戦端を開くことを諦める。とはいえ、「薩長何する者ぞ」との思いは収まらず、額兵隊250名は松島湾に停泊中の榎本艦隊に合流し、一路、蝦夷地に向かうのじゃ。

箱館戦争で、恂太郎は陸軍歩兵並として榎本武揚の信任を得る。そして、土方歳三ととも松前城攻めで功を挙げるなど、蝦夷政権陸軍の一翼を担う。じゃが、時代の流れに抗うことはできず、新政府軍が本格的に反撃に転じると、木古内の戦いで敗れ、自決しようとしたところを部下に止められ、五稜郭へ戻っている。

五稜郭総攻撃の前夜、薩摩の黒田清隆が酒樽五樽と肴の鮪五尾を送ってきた。じゃが、兵たちは毒を恐れてこれに手を付けない。すると恂太郎は、「窮余の我に対していかでか毒を盛らん、安んじて酒を酌むべし」と大笑いしながら樽の鏡を割り、美味そうに一杯飲みほし、諸将もこれに従ったという逸話がある。もともと酒好きの恂太郎じゃったが、箱館では禁酒をしていたらしい。この夜の酒の味は、終生忘れ得ぬものとなったことじゃろう。

維新後の星恂太郎

戦後は新政府軍の捕虜として弘前藩に幽閉されたが、明治3年に釈放されている。その後は開拓使大主典となって北海道岩内に移り、同じ仙台藩士の細谷十太夫らと製塩業を営んでいる。じゃが、思うように利益は上がらず、2年後には廃業して仙台に戻っている。そして明治9年7月27日、37歳で没。 

なお、恂太郎には、箱館出征直前に結婚したつるとの間に二女をもうけている。長女は榎本対馬の次男・孝三郎に嫁ぎ、次女は樋口忠一に嫁いでいる。

f:id:takatoki_hojo:20190909112803j:image
f:id:takatoki_hojo:20190909112812j:image

仙台榴岡天満宮には、額兵隊と見国隊、そしてそれぞれの隊長、星恂太郎と二関源治を憲章する碑文がある。二関源治もまた見国隊を率いて箱館戦争を戦い抜いた仙台藩士じゃ。じゃが、現在、仙台ではこの2人の知名度は必ずしも高くないという。実際、わし、ユアスタに行く前に友人の仙台サポと牛タン食べているとき、星恂太郎碑をみてきたと言ったら、「誰それ?」と言われたしな。

額兵隊といえば、むしろ函館のほうが脚光を浴びている感じじゃな。箱館五稜郭祭の「維新パレード」では、額兵隊が榎本軍の先頭を歩く。また、戦死者供養塔の前で弔銃を放つのも額兵隊の役目じゃ。赤と黒リバーシブルが人目をひき、かなりの人気だとか。星恂太郎の奮戦も報われていると思うと、ちょっと嬉しいではないか。

ちなみに、北海道岩内町では海洋深層水を使った天然塩「星の塩」を販売している。もちろん、星恂太郎にちなんだ商品である。通販でも入手できるので、よろしければどぞ。