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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

仙台藩の戊辰戦争、藩境死守!駒ケ嶺の戦いと松山隊の悲劇について

宮城県との県境にある福島県相馬郡北東部にある新地町は、かつての仙台藩相馬中村藩の藩境じゃ。戊辰戦争ではこの付近で、新政府軍と仙台軍の激しい戦いが繰り広げられておる。ここ御殿岬は、仙台藩松山隊が追い詰められた場所。撃たれる者、斬られる者、断崖から海に落ちる者、総勢27名が壮烈な戦死をとげている。

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「ドン五里兵」でダメダメだった仙台藩

まずは、そこへ至る経緯をざっくりとおさらい。そもそも奥羽越列藩同盟は、白河以北に新政府軍を入れないことを基本戦略としていた。じゃが、白河口は十分な兵力を擁していたにもかかわらず、寡兵の新政府軍にあっさり奪取されてしまう。同盟軍は会津藩旧幕府軍に加え、仙台藩二本松藩も出動し、何度も奪回を試みたが、その度に撃退されてしまう。

そうこうしているうちに新政府軍は仙台追討総督(後に奥羽追討平潟口総督)・四条隆謌、参謀・木梨準一郎、河田左久馬が率いる軍勢が平潟へ上陸し、徐々に兵力を増強してきた。

仙台藩は援軍を送り、平藩、棚倉藩、旧幕府遊撃隊と共同で戦うが、これまたあっさりと敗れてしまい、磐城平城棚倉城が相次いで陥落した。そして、勢いを得た新政府軍は中通りを二本松へ、浜通りを相馬中村へと侵攻すると、三春藩守山藩が同盟を離脱してしまう。

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かくして仙台藩会津や二本松に援軍を出している場合ではなくなってしまう。藩境に敵兵が迫ると、郡山に駐屯していた仙台藩兵は会津藩領を経由して逃げるように撤退を開始。この時点で同盟諸藩の結束は完全に崩れてしまうのじゃ。

盟主仙台はざんねんながら弱かった。大砲がドンと鳴れば五里も逃げる「ドン五里兵」と嘲笑されたくらいじゃからな。火力も装備も旧式で、近代戦を指揮する人材もいない。しかも会津のように士気は必ずしも高くない。藩祖・伊達政宗以来の大国意識もあり、緊張感もなかったんじゃろう。

そもそも仙台藩は「伊達家の四十八盾」と言われ、大身の一門と宿老がやたらと多く、藩内に藩があるような状態でまとまりがない。藩主の直轄兵力も少なく、大半は亘理勢、登米勢、宮床勢など一門宿老の私兵じゃ。そのため、いざまとまって一軍を編成しようとしても統制は困難で、軍隊行動はじつに鈍い。

とはいえ、相馬中村藩が降伏すると、さすがに一門宿老もあわてた。いよいよ城下まで50kmに敵が迫ってきたわけじゃからな。

藩境死守!駒ケ嶺の戦い

仙台藩は、駒ヶ嶺に石田正親の兵2000、旗巻峠に鮎貝太郎平の兵1200と白河口から転戦してきた細谷十太夫の鴉組を配置した。さらに降伏の動きをみせる相馬中村藩を牽制するため、黒木の地にも兵力を集結させた。

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いっぽう新政府軍は、長州、福岡、広島、鳥取、津、熊本、久留米の藩兵に徴兵隊を加えた兵3000が相馬中村藩に圧力を加える。その結果、相馬中村藩は降伏し、今度は黒木に布陣した仙台兵に攻め込んだ。仙台藩もよく防いだが、長州藩と徴兵隊が救援にかけつけるとこれを支えきれず、藩境に撤退して背水の陣を敷いたのじゃ。

駒ヶ嶺城は別名臥牛城。天正年間に伊達政宗がこの辺りを自領にしてからは、伊達相馬国境の城として伊達氏の重臣が城代として治めてきた。

まさか、ここで戦になるとは仙台藩首脳は思っていたなかったんじゃろうな。

駒ケ嶺城(臥牛城)

駒ケ嶺城(臥牛城)

さすがの仙台藩も領外で戦ってきたこれまでとは違って必死の抵抗をみせ、駒ケ嶺の戦いは激戦となった。じゃが、最終的には新政府軍に駒ヶ嶺を占拠されてしまう。

その後も仙台藩は春日左衛門の陸軍隊の協力を得て、2度にわたり駒ケ嶺奪回を目指して反撃に出た。じゃが、なぜか旗巻峠の友軍がは積極的な支援をみせない。このあたりはじつにチグハグというか、仙台藩の戦いぶりはいつもこんな感じじゃ。

かくして駒ケ嶺奪回作戦は失敗し、仙台藩は敵兵を領内に入れてしまう。そして、これにより藩内では主戦派を一掃し、新政府軍に降伏しようという勢力が蠢きだすというわけじゃ。

駒ケ嶺の戦いにおける仙台藩士戊辰戦没之碑

駒ケ嶺の戦いにおける仙台藩士戊辰戦没之碑

駒ヶ嶺城址から下って南に行ったところに、仙台藩士戊辰戦没之碑があった。また、周辺には戦死者440人の名が刻まれた碑と戦没者墓がある。

それにしても旗巻峠の仙台兵は何をしておったんじゃろう。多少の援軍を出して牽制したり、砲をぶっ放したりはしていたようじゃが、友軍としてはやはりお粗末じゃ。

まあ、旗巻峠方面のこについては、長くなってきたのであらためて書くことにしたい。

仙台藩松山隊の悲劇 

なお、2度目の駒ケ嶺奪回作戦では、壮絶な逸話がある。

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慶応4年8月20日仙台藩松山領(現在の大崎市)の兵が攻め込んだ。隊長は鈴木市郎左衛門で、あの鬼庭左月斉の末裔・茂庭氏の家老じゃ。

戦況は当初、仙台藩が優勢じゃった。じゃが、にわか雨で火縄銃がぬれてしまい形勢は逆転。松山隊は御殿岬に追い詰められてしまう。

松山隊は海を背負って奮戦するが、さいごは進退窮まり、兵たちは次々と海に身投げしたという。隊長の鈴木は近くの大戸浜にある松の木の根元で自害した。この戦況を「津藩報」が記している。

賊の背後を絶切り、前後より相廻し候所、賊徒大いに困窮、四十人ばかりも海中に逃げ入り、溺死仕り候様見受け申し候。猶海中にて、凡そ六十人余も打留め、斬り伏せ申し候。

大戸浜は砂浜が続いているが、御殿岬のところだけは断崖絶壁となっている。松山隊は南北から挟撃を受けたというから、領内へ逃げ込むことはできなかったんじゃろう。

現在、この地には「仙台藩松山隊勇戦地」の石碑が立つ。そして大戸浜には松山隊と隊長鈴木の墓があり、遺族らが慰霊に訪れるという。 

「仙台藩松山隊勇戦地」の石碑

仙台藩松山隊勇戦地」の石碑

ちなみに、新地町は東日本大震災津波による被害をもろに受けている。あれからずいぶん月日はたっているが、復興はまだまだ道半ば、といった印象じゃ。

今回の遠征では、この後、南相馬から いわきに向かうとき、浪江町から常磐道にのったんじゃが、帰宅困難区域に警備の人たくさんいるし、二輪の走行は禁止だとかを目の当たりにすると、原発被害の深刻さをあらためて感じた。

現地で酒飲んで余所モンが何言ってるんだかもしれんが、ただ、宿のご主人は、「そんなことない。うまい魚とか野菜をどんどん食べて金を落として、風評被害も吹き飛ばしてほしい」と言ってくれた。

そうじゃな。うん、いかにもそうじゃ。まあ、歴ヲタ活動はあまりお金は落とせないが、風評被害の払拭にはいささかでもお役に立とうかと思うぞ。

ということで、福島関連の歴ヲタブログ、もう少し続けます。